ゆるっと京都 de スローライフ

日々の気づきを発信している雑記ブログ!

80年代の京都の大学キャンパスは大混雑!特に学食(笑)

80年代の大学はとにかく学生の数が多くて、特に四月のキャンパスは学生でごった返していました。特に学食!

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メニューの多さにビックリ!

大学の学食には「~定食」「~丼」「麺類」「一品物」「汁物」などがあり、季節によってメニューはいろいろ代わりました。

大学に入ったばかりの頃、うどんやそばのおつゆがすごい薄味で本当に驚きましたね。

京都は薄味と聞いていましたが薄味というより味がなかった!

また生野菜にかけるドレッシングが何種類も置いてあって、自分で好きなように選べるところが新鮮でしたね。

最初こそ戸惑いましたが、慣れるといろいろ試してみたりしてました。

 

個人的におもしろかったのは、やっぱり丼物でしょうか。

マーボー丼や鶏カツどん、中華丼は、それまであまり食べたことがなかったので新鮮でした。

夏の冷麺も種類が多くてうれしかったです。  

 

大混雑だった学食 

学食はキャンパス内にいくつもありましたが、どこもいっぱい!

トレイを持ったまま、食べ終わるのを通路で待っているような状態でした。

そのうち、荷物を置いて席取りをしてから、食券を買いに行くという技(?)を覚えました。

ただあまりの混雑で、3講目の授業に遅れてしまうこともしばしばでした。

大学に来る学生の数はゴールデンウイークのあと位から減り始めましたが、学食はいつも混んでいたように思います。  

清算の仕方はそれぞれの学食で違っていて、先に食券を買う学食もあればトレイに料理の器をのせてレジで支払う学食もありました。

レジもやっぱり順番待ちで長蛇の列でしたね(笑)

大学に慣れてくると学外の喫茶店や食堂にも目が向きはじめ、一通り入ってみるようになりました。

学食より空いてて楽だったけど、みんなあまりお金がなかったしやっぱり基本は学食という人が多かったですね。  

 

座席の確保が最優先

今と違い席を確保するのが大変だった時代。

一人で食べるのをためらっている学生は少なかったように思います。

もちろん女子は今と変わらず群れるのが基本でしたね。

友達同士で座ろうとすると、もう必死(笑)

“食べ終わりそうな人を探し出してその横で待つ!”基本中の基本でした。

 

キャンパス内の男女の比率は圧倒的に男子が多く、学部によってはクラスに女子が一人とか二人ということもあったようです。

理系とか法学系は本当に少なかったですね。

“ぼっち”をこわがっていたら、大学生活が成り立たない!

そんな時代でした。

 

今の学生は極端に“ぼっち”を嫌うようで、テレビで「学食の座席の改革」的な番組を見たことがあります。

「一人ぼっち=友達がいない」みたいに思われるのが嫌で、食事を抜いたりトイレの個室で食べる学生がいるとのこと。

そこで“ぼっち席”なるものを作ったとかいう話でした。

“ぼっち席”とは、壁際や窓際の席に仕切りを設けて、相席したり誰かと向かい合ったりしなくていい席のことだそうです。

よくカフェにありますよね。

「何とデリケートな!」と思う反面、そういえば自分だって一人で食べるの苦手だったな…。

 

少し前から、少子化で学生を確保することが課題になっている大学が多いと聞きます。

様々な工夫や気遣いをしてもらえる今の学生が羨ましい気がしますね。

 

 

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80年代の京都の大学生のファッションってやっぱり“地味”だった?

80年代に流行ったファッションといえば何を思い出すでしょうか?

一般的にはDCブランドプレッピーニュートラハマトラなど華やかでしたね。

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ファッションに関心が集まった80年代

80年代のファッションで絶対に外せないのがDCブランド。

国内のデザイナーやアパレルによるブランドです。

代表的なものにピンクハウスコム・デ・ギャルソンヨウジ・ヤマモトKENZOなどがありました。

ファッションビルがあちこちにできて、デパートもこれらのブランドショップが主流でしたよね。

DCブランドのショップの販売員さんはハウスマヌカンっていう名前で呼ばれていました。

一体どこの言葉?って感じですが当時は流行の最先端だったのです。

今ではすっかり“死語”ですね(笑)

 

80年代は経済的に成熟していた時代

私が大学生だった80年代の後半期はバブルへと向かう時期で、ファッションにお金をかける人が多くいた時代だと思います。

またCanCanJJといったファッション誌がそのお手本になっていました。

『オシャレな大学生特集』のような企画も多く、京都の大学ではノートルダム女子大同志社女子大が、よく取りあげられていました。

特にノートルダム女子大のある北山通りは、オシャレなカフェやブランドショップが多くてとても華やかでした。

京都で一番オシャレなスポットとして認知されていましたね。

観光客もすごく多くて、いつも賑わっていたのを覚えています。

河原町通御池通から四条通)や四条通烏丸通から東大路通)辺りも賑やかでした。

土日になると、今とは比べられないくらい人がいっぱいで歩けないほどでしたね。

ファッションに気を使っているオシャレ人がたくさんいました。

 

大学生のファッション

その時代の大学生のファッションがどうだったかといえば、ファッションに関心の集まる世の中のブームとは別の世界という感じでしたね(笑)

高校時代の友達が京大、同志社立命龍谷、京女など京都の他の大学に来ていたので時々遊びに行きましたが、どこも似たような感じでした。

もちろんファッション誌にとりあげられる一部の女子大や、一部のオシャレな人たちを除いてですが…。

 

私の大学では、入学式こそみんなスーツできちんとしていましたが、次の日からはほとんどの学生が“フツーの普段着”でした。

どちらかといえばオシャレとは真逆で、家にいる時のまんまみたいな…。

上の学年の先輩たちもほとんど同じような感じでしたね。

特に男子は、春はトレーナー(今でいうスウェット)とジーンズ、夏はTシャツかポロシャツとジーンズ、秋はチェックや無地のシャツの上にカーディガンかトレーナー(プロデューサー巻きあり)とジーンズ、冬はセーターか秋の格好の上にスタジャンか短めのコートをはおってくるというのが定番だったように思います。

女子はそこそこ気を使ってはいたようです。

でも大学に女子が少ないということもあり、全体的にみて地味でした。

すっぴんの人も少なからずいたように思います。

 

もちろんオシャレな人もいるにはいました。

でもそういう学生は普段はバイトやしたいことをしていて、大学にはあまり来ていなかったのです。

テスト期間になると見かける率が上がりましたね(笑)

 

音楽やマスコミの影響

地味でオシャレとはあまり関係のない大学生も、次第に経済の波に飲み込まれていきました。

80年代アイドルのぶりっ子ファッション、YMOのテクノファッション、安全地帯などバンドのモノトーン系や大きめの肩パッドのジャケットなど、流行を取り入れる学生はだんだん増えていったようです。

本物のブランドの服は買えないまでもそれを模倣したものを買う人がほとんどだったと思いますが、本物を手に入れるために必死でバイトしている人もいましたね。

 

また、服はオシャレとは無縁でも、髪型だけは流行のスタイルっぽいという学生が案外多かったように思います。

その頃には松田聖子さんはもうショートヘアでしたが、その時代のアイドルは聖子ちゃんカットと似たような髪型をしていました。

そのせいかレイヤーを入れて、フワフワに後ろに流すような髪型の女子が多かったようです。

男子の間ではテクノカットといわれる、もみあげを短くまっすぐに切りそろえてバックを刈り上げるような髪型が流行っていました。

でも大学に限らず、流行っているというだけで全然似合っていない服装や髪型の人がけっこういましたよね。

「そんなに頑張らなくても」っていうような、ちょっと笑っちゃうような…。

そんな感じでしょうか!

街に出るとDCブランドの影響からか、奇抜なファッションの人やモード系の服装やメイクの人を見かけることもありました。

平野ノラみたいな感じの人もいましたね(笑)

今ではテレビかハロウィンくらいでしか目にしなくなりましたよね?

 

私の大学時代のファッション!

私も大学時代は、毎日何を着ていったらいいのか悩んでばかりでした。

CanCanやJJには真似してみたいと思う服装がたくさん載っていましたが、どれも高くて買い揃えるのは難しかったですね。

周りもみんなそんな感じでした。  

BIGIやメルローズに憧れてショップを覗いてみるものの、試着するのもためらってしまう…買えないのがわかっているから。

それとショップのお姉さん、そうハウスマヌカンが苦手でした!

でもあちこちのお店を見て回るだけでも十分楽しかったですね。

結局、どうしても欲しかったBIGIのジャケットやワンピースは、親にねだって買ってもらいました(笑)

もちろんアルバイトもしていたので、そこそこ自分なりのオシャレを楽しんではいました。

あくまで自分なりのです(笑)

 

京都の繁華街の変化

今も京都に住んでいますが、河原町に行くことは少なくなりました。

京都に来たばかりの頃、初めて四条河原町の阪急百貨店を見た時はあまりの綺麗さに驚き、また本当にうれしかったことが思い出されます。

今は別のお店になっていますが、私が大学生の頃はよく待ち合わせ場所に使われていていつも人でいっぱいでした。

外から店内のシャンデリアがガラス越しに見えて、すごくキラキラしていてオシャレでステキでしたね。  

バブルの頃にはデパートもファッションビルも、特にバーゲンの時など開店待ちの人で溢れかえっていたものです。

河原町通もチェーン店が増え、当時とは様変わりしました。

BALもリニューアルしましたが、あの頃のような賑わいがまた戻ってくるといいですね。

もちろんバブルは困りますが…(笑)

 

 

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80年代の大学入学式と初めての独り暮らし

80年代の受験の大変さについては、前回書いた通りです。

今回は晴れて京都の大学に合格してから入学式を迎えるまでを書きます。

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大学が決まるまで

80年代は受験生の数が多いだけでなく地方入試もまだそんなに多くなくて、地方の高校生にとっては大変でした。

関西で人気があった関関同立(関西・関西学院同志社立命)は、偏差値が60以上あり競争率も非常に高かったですね。

私は滑り止めをいれて4回ほど受験しました。

待ちに待った格通が届いた時は本当にうれしかったですね。

合格した中で第一志望だった京都の大学に入学手続きをしました。

 

三月には卒業の余韻もそこそこに国公立の二次試験がありましたが、こちらの方はちょっと残念な結果でした(涙)

ただ私は京都で暮らせることへの期待の方が大きくて、何だかワクワクするような感じでしたね(笑)

 

京都で下宿探し

そういう事情で大急ぎで住むところを探すことに!

3月の何日かは忘れてしまいましたがとても天気のいい日でした。

両親とともに住むところを探しに京都に来たんですよね。

京都にはなじみがなかったのでとりあえず大学の下宿案内の窓口に行きました。 

ところが「紹介できるところはもうあまりないんです。」と言われ、いきなり焦ってしまったのです。

窓口の方の話によると「私大志望の学生から順に決まってしまうのでこの時期になると少なくなる」とのことでした。

残っているところで3~4件くらい紹介してもらい地図を片手におしゃべりしながらブラブラ見に行くことに。

今となってはとても懐かしい思い出です。

結局3番目に見に行った、女子学生用のアパートに決めました。

玄関を入ると、台所と洗面所、トイレ、ランドリーが共用で一階にあり、各個室は1階と2階に12室ありました。

そこのアパートが運よく一室だけ空いていたのです。

当時は、そういうタイプの下宿やアパートが、まだマンションよりちょっとだけ多かったように思います。

ということで、大家さんにも挨拶を済ませ、その日は自宅に帰りました。

 

そしていよいよ引っ越しの準備です。

家具や電気製品などひと通りのものは大学生協に申し込むことができたので、本当に便利でした。

コロナ自粛中に片づけていた段ボール箱の中に、その時の大学生協のパンフレットを見つけました!なんでとっておいたのか不思議ですよね(笑)

 yuluttokyoto.hatenablog.jp

 

それでも手持ちの衣類やら何やら、結構な荷物になりましたね(笑)

 

3月の終わり頃、ついに京都に出発しました。

 

独り暮らしの始まり

京都駅はめちゃくちゃ混んでいて目が回りそうでした。

今の京都駅舎ができる前のことですが、その当時から春の京都駅の混雑は相当なものでしたね。

下宿に着くと大家さんに挨拶をしに行きました。

一回生は私を入れて4人。あとは同じ大学の先輩たちだったので少し気が楽でしたね。

ガスコンロや洗濯機、乾燥機などの使い方や、共有のルールを教えてもらいました。

大変だったのは、私より先に着いていた沢山の荷物の梱包を解かなければならなかったことです。

足りないものは近所の商店街で買い揃えました。

その晩は初めての独りご飯

京都駅で買ってきたお弁当でしたが、寂しくて味気なくて……。

家族の暖かさが恋しくて、泣きそうな気分でしたね(笑)

 

でも大変だったのは、それからです。

知らない所で知らない人たちと一緒に生活して、しかも自炊しながら大学に通うわけですから。

「ろくにお料理もできない自分が本当にやっていけるのかなあ」っていう不安でいっぱいでした。

でもやってみればなんとかなるもんなんですよ!

キッパリッ!!

 

入学式は学生で大混雑

そしてついに入学式の日がやってきました。

今思えばこの日から新しい人生が始まったんですね。

入学式は、とにかく学生の数が多くてびっくりしました。

スーツ姿の新入生、家族、上級生などでごった返していて、前に進むのがやっとという状態!

会場の中でもあまりの人の多さに気おされてしまいました。

式のことはあまり覚えていません(笑)

吹奏楽部の演奏が記憶にちょっと残っているくらいかな♬

 

式が終わって外に出てきたら、サークルの先輩たちの勧誘がすごくてまたビックリ(笑)

右からもビラ。左からもビラ。「旗か?」と思う位はためいていましたね。

無理やり押し付けられたビラを仕方なくもらって帰ったのを覚えています。

結構な枚数でしたが、どのサークルに入るかなんてまだ何も考えていませんでした。

 

次の年にはビラを配って(押しつけて)勧誘する側になることなどまだ知らなかった私です。

 

 

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コロナ自粛中に80年代にタイムスリップ

クローゼットの整理をしていたら懐かしいものがたくさん出てきました。

今まであまり振り返ってこなかった80年代について書いてみようと思います。

忘れてしまう前に…。

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コロナ自粛中の発見

きっかけはコロナの流行で時間に余裕ができたこと。

今まで見て見ぬふりをしてきたクローゼット奥の段ボール箱たちの整理を開始!

始めてみれば「よくぞこんなものを」と思うような懐かしいものからくだらないものまでどんどん出てくる出て来る(笑)

特に大学時代のものが多かったですね。 

80年年代の後半、私は京都の大学の女子大生でした。

しまってあった色々なものを見ていると、様々なことが思い出されてきました。

あの時代の大学は思い返してみるとホントに面白いです。

授業もバイトもコンパも遊びも。

当時の写真を見ると、そこに写っている彼ら彼女らが今どうなっているか知っているだけに笑えてきます。

まるでタイムカプセル!

本当に懐かしかったので思い出せる限り書いてみたいと思います。

  

大学受験で地方から京都へ

私は海辺の地方都市で幼少期を過ごしました。

高度成長時代で子供でもだんだん豊かになっていくのがが実感できた時代です。

青春時代はほぼバブルとその前後。落差は激しかったけど(笑)

 

なので京都に住むようになったのは、大学時代からです。

本当は東京の大学に行きたかったのですが、「京都は学生の街だから安心!」とすすめられ受験しました。

受験のため初めて京都に一人で泊まることになり、両親がすごく心配したのを覚えています。

田舎の女子高生には、京都は十分都会でしたね(笑)

確か大学生協の「受験生の宿」に申し込みました。

一人部屋は心配だからと4人の相部屋!

同じ大学の受験生ということもあって同じ部屋の3人とすぐに打ち解け、喫茶店に行ったり、受験の時のお昼ご飯用のパンを買いに行ったりしました。

そのパン屋さんは、「志津屋」です。京都では誰でも知っている美味しいパン屋さん。

その時はたまたま近かっただけで偶然です(笑)

 

晩御飯は「鶏の水炊き鍋」でした。

仲居さんが目の前で作ってくれたので驚きました。

とてもおいしくて4人でいろいろな話をしながら食べました。懐かしいです。

そんな感じで受験前夜は仲良く枕を並べて眠りました。

4人部屋のおかげで緊張感ゼロ(笑)

リラックスできてよかったのかも。

翌朝、朝食をとったあと同部屋の人たちと再会を誓って別れました。

さすがに連絡先を交換する勇気はなかったようです。

 

80年代の受験風景

御池通りに何台も貸し切りバスが停まっていて、近くの旅館やホテルに宿泊した学生が受験会場の大学まで一緒に行きました。

80年代は子供の数が多かったので大学受験はものすごい倍率でした。

また今ほど地方入試をあちこちでしていなかったので、会場の大学は受験生で溢れかえっていました。男子の方が圧倒的に多かったですね。

大学は「○○館」とか「○号館」といった聞きなれない建物ばかりで、最初に受験した

ときは本当にあせりました。

どの建物も同じようで迷いそうでしたね(笑)

でも何回も受験するうちにだんだん慣れていきました。

みんな同じよういくつも受験していましたね。

地方から京都に受験に来た人は、二月は連泊してたようです。

親の負担も大変なものだったと思います。

経済的にもそうですが、ずいぶん心配だったことでしょう。

地方から大学に入るためには、まず受験そのものが一大イベントだったのです。

それを乗り越えたら(合格したら)晴れて大学生です!

 

 

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「京都人」という言葉には二つの意味があるって知っていますか?

テレビやネットで「京都人」という言葉をよく見聞きします。

ほとんどが悪いイメージで使われていて面白いです。

でも京都では、この「京都人」という言葉には二通りの意味があるんですよ。

知らずに使っていると痛い目に合うかも?です(笑)

 

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テレビなどで使われている「京都人」のイメージ

最近、「京都」VS「大阪」とか「京都」VS「滋賀」みたいな番組が多いですよね?

そういう番組のほとんどは「京都人」がらみです。

結局、「京都人」のプライドの高さや、思っていることを口にしないところ、他府県を見下しているところ、いけずなところなどをあげつらって落とすみたいな感じでしょうか?

今までみんなが思ってきたことだったり、一度ならずも嫌な思いをしたことがあることだったりするのかな?

「笑い飛ばしてスッキリする」みたいな感じかも知れないですね。

 

私が好きな「秘密のケンミンSHOW」という番組では、MCの久本さんが「京都人イジリ」をするのが面白くていつも笑って見ています。

彼女は大阪人ですからね。

当然ながら京都人受けはよくありません(笑)

「偏りすぎ!」とか言って怒っている人が私の周りにもたくさんいます。

 

でも以前NHKで放送していた「京都人の密かな楽しみ」という番組では、「京都人」=「京女」として描かれていました。

こちらは上品でおしとやかでちょといけずな京女を常盤貴子さんが演じていて、すごく人気があったようです。

この番組はバラエティーと正反対で、ちょっといいイメージでした(笑) 

 

 

  

 

「京都人」の意味とは?

「京都人」とは京都で生まれ育った人のことを指します。

コミュニティーが狭くてつながりが深く付き合いが長いので、お互いの仲間意識や連帯感が強いという特徴があります。

"京都生まれ京都育ち"ということに異常なまでのプライドを持っていて、他府県を見下したり「京都人」以外を寄せつけなかったりします。

 

またうわべと本音は違うと思った方がいいですね。

その場の空気を読んで周りに合わせるのが上手です。

表立って本音は言わないけれど内緒話は大好きで、人の悪口と噂話が大好物(笑)

 

ではどうして「京都人」という言葉がこんなに正反対のイメージで使われているのでしょうか?

それは「京都人」という言葉には二通りの使い方があるからです。

 

京都人が使う「京都人」

京都人は自分たちのことを「特別な存在」だと思っています。

もちろん勝手な選民意識なんですが、「千年もの昔から都だった京都に生まれ育ったもの」としてのプライドは相当なものです。

「日本で京都は一番、だから自分たちも一番!」と本気でそう思っていたりします。

京都人が自分たちのことを「京都人」と言う時は、そんな風な意味です。

 

「うちら京都人やからそんなことわからへんわ」

「だって京都人やもん」

そんな会話を何度聞いたでしょうか。

もちろん京都人以外に対してです。

要するに、京都人同士の仲間意識で自分たちに対して「京都人」を使います。

京都人以外と差別化をして、「京都人の方が上」という意味を込めているのです。

 

また女性は「京都人=京女」と自負していますが、上記の「京都人の密かな楽しみ」の常盤貴子さん的イメージでしょうか(笑)

 

京都人以外が使う「京都人」

それに対して京都人以外が使う「京都人」とは、テレビなどのマスコミやネットで日々使われているどちらかといえばよくない意味ですよね?

プライドが高くて腹黒、いけず、嫌味…。

 

そのため京都人は、京都人以外から「京都人」と言われるのをとても嫌がります。

 

ただ京都の女性はやっぱり人気があるようです。

男性を立てる、つくす、我慢強い、控えめ、上品、優しい…。

そういうイメージが根強くあるんですね。

おそらくこれらは男性の理想や願望なんでしょう(笑)

 

とにかく「京都人」と付き合うなら、二通りの意味を理解しておくことです。

「京都人」の前で「京都人」というワードを使うのはNGですよ! 

 

 

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京都 天龍寺で真夏の庭と精進料理を楽しむ!

8月もあと少しになりましたね。

今年の京都はここ数年の中でもトップクラスの暑さでした。

先日はまだまだ暑い嵐山の天龍寺で、真夏の庭園と精進料理を楽しみました。

 

真夏の天龍寺

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嵐山にある天龍寺臨済宗天龍寺派大本山で、1339年に吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏によって創建されました。

開山(初代住職)は夢窓疎石です。

度重なる大火のため、現在ほとんどが明治以降に再建されたものだそうです。 

1994年に世界文化遺産に登録されました。 

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嵐山を借景にした夢窓疎石作の庭園(曹源池)は回遊式の庭園で、当時の面影を残していると言われています。

 

真夏に訪れたのは初めて。

とにかく蒸し暑い!

でも庭園は、緑と白のコントラストが美しくて涼しげです。

写真を見ても全然暑そうじゃないですね(笑)

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訪れたのは午後でしたが、めずらしく空いていました。

でも今夏は地震や豪雨、台風の影響もあり、観光客が少し少なめだったそうです。

天龍寺は家から近いので友人や知人をよく案内しますが、こんなに空いていたのは初めてかも?

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曹源池はさすがの美しさです。

いつ来ても感動しますが、特に夏は緑色が深い! 

そのため池の水の色はとても深い緑色です。

暑さを差し引けば、色彩が濃い庭園も素敵ですね。

 

精進料理の篩月(しげつ)へ

天龍寺直営の精進料理店「篩月」を訪れました。

実はこちらが先!

しかもメイン(笑)

天龍寺の敷地内にあります。

広~い大広間で頂きました。

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湯葉は特に美味です!

お出汁が効いていました。

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トウモロコシのご飯も美味しかったです。

私は野菜の好き嫌いが多いので、今まで精進料理は敬遠しがちでしたが大丈夫でしたよ。

ゆっくり味わって頂きました。

 

詳しくはこちらをご覧ください↓↓↓

天龍寺直営 精進料理店「篩月(しげつ)」:世界遺産|京都 嵯峨嵐山 臨済宗大本山 天龍寺 公式ホームページ

  

 

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大正から昭和初期のアメリカで暮らした祖父母のアルバムを見て思ったこと

第一次世界大戦第二次世界大戦の間の比較的穏やかな時代、私の祖父母はサンフランシスコで暮らしていました。 

その頃のサンフランシスコは、日本とは比べものにならないくらい近代的で豊かだったようです。

久しぶりに祖父母のアルバムを開いてみたら、いろいろな想いが溢れて胸がいっぱいになりました。 

 

アメリカへの留学

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祖父は高校を卒業すると十代でアメリカに留学し、そのままサンフランシスコの貿易会社に就職しました。

アメリカに行ってから10年後、結婚のため一度日本に戻り妻である私の祖母を連れて再びアメリカへ。

そんな時代に、まだ十代の長男を異国に行かせる決断をした両親(私の曽祖父母)には驚きと同時に尊敬の気持ちでいっぱいになります。

新しい世界を見たい、最先端の国で学びたい、そこでどこまでやれるか自分を試してみたい。

若かりし頃の祖父の夢を思うと、胸が熱くなります。 

 

二人だけの結婚生活

当時のサンフランシスコはいろいろな国からの移民が多かったそうですが、祖父の会社や住んでいたアパートには日本人は誰もいなかったそうです。

本当に二人だけの結婚生活で、そのために余計に絆が深まったとか。

とにかく今風に言えば"ラブラブ"といったところでしょうか(笑)

生涯、羨ましいほど本当に仲のいい夫婦だったそうです。

 

祖父のサポートがあったとはいえ、祖母にとっては言葉もあまり通じない国で出産や育児をするのは さぞかし大変だったことでしょう。

その当時の日本人に共通する部分だと思いますが、どんな事にも我慢して本当によく頑張ったと思いますね。

いろいろな意味で頭が下がります。

おかげで子供にも恵まれ幸せな結婚生活を送っていたようです。

 

残念ながら私の母はアメリカ生まれではありません。

帰国してから、しかも祖母が40歳を過ぎてからの子供です。

そのため私は祖母のことは少し覚えていますが、祖父のことは全く知りません。

 

豊かで文化的だった当時のアメリカ社会 

祖母や母の兄弟から聞いたところによると、当時のサンフランシスコは日本とは比べ物にならないくらい豊かな国だったようです。

まず"会社が日曜日は休みで土曜日もお昼まででだった"ということに驚きました。

アパートから会社までは車で通勤していたようで、クラシックな車の前で撮った祖父のスーツ姿の写真が残っていました。

 

子供たちは会社から帰ってくる祖父の車の音がすると、大急ぎでスリッパを並べて玄関で待っていたとか。

時々お土産を買ってきてくれたそうで、中でも三色のアイスクリームが大好きだったと叔母が話してくれました。

バニラとストロベリー、チョコレートのアイス!

とても美味しそうです(笑)

 

日曜日には教会のミサに出かけ、公園でくつろぎ、時々野球の試合を見に行く。

祖母はチャイナタウンで食事をするのが楽しみだったそうです。

思わず「いつの時代の話?」と聞きたくなるくらい、今の時代の休日と変わらないことに驚きます。

 

私がもっと驚いたのは、当時の食品店。

なんと、今と同じようにカゴに買いたいものを入れてレジで精算するスタイルだったそうです。

祖母の話では欲しいものが何でも好きなだけ買えたそうですから、すでに普通に豊かな社会だったということでしょうか?

楽しそうな生活は、祖父母のアルバムを見れば伝わってきます。

 

そして、写真に映った当時のサンフランシスコの街の様子にも驚きました。

きれいに整備された道路、街灯、カフェやレストラン、近代的なビル…。

その建物の中には今も現役で残っているものがたくさんあるそうです。

今のサンフランシスコの写真と比べてみたら、確かに見つけることができました。 

 

戦争を越えて

戦争が始まった時、祖父は「(日本は)絶対に勝てるわけがない」と言っていたそうです。

実際に自分の目で見て、アメリカという国の大きさを知っていたからでしょう。

そのままアメリカにとどまっていたら収容所生活を強いられたわけですから、帰ってきて正解だったのかも知れません…。

 

帰国してからの祖父母一家の生活は、それまでとは一変しました。

特に子供たちは文化の違いで苦労したそうです。

畳の生活や衣服、食べ物など何もかもが変わってしまって辛かったと叔母に聞きました。

特に戦争中は、いろいろと大変だったそうです。 

 

でも新しい家族も増えました。私の母もその一人です(笑)

祖父母は相変わらず仲が良く、ユーモアに溢れた楽しい家族だったそうです。

「夫婦がお互いを思いやり尊重し合える対等な関係であることの大切さ」を、私は祖父母から学びました。

 

ただ、もし戦争がなかったら、そのままアメリカで暮らしていたはず。

私の人生も、もしかしたら全く違うものになっていたかもしれませんね。

いつの日か祖父母の暮らしたサンフランシスコへ行ってみたいと強く思います。 

 

 

 

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京都二条駅界隈 変貌を遂げた街並みと変わらない二条城と

先日、久しぶりにJR嵯峨野線に乗りました。

外国人の観光客が多くてびっくりです!

特に二条駅からの乗り降りが多かったように思いました。

二条城へ行くお客さんが多いのかな? 

 

JR二条駅界隈

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JR二条駅は、私が学生だった頃とはイメージがずいぶん変わりました。

また駅の周辺が再開発されて新しいビルがたくさんでき、以前とは全く別の街になった印象です。

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駅の正面の千本通には、お店や飲食店、オフィスなどが入ったビルや大学、専門学校のビルが次々とできました。

以前ここはどんなんだったか思い出そうとしましたが、なかなか思い出せませんね。

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地味だった千本通は、新しいビルやスーパーが立ち並んで明るい印象になりましたね。

マンションも増えましたよね~。

確かに便利ですよね、この辺は! 

市営地下鉄の東西線ができてすごく便利になりました。

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佛教大学や立命館大学が並んでいます。

何をしている所なのかは知りませんが(笑)

学食が安くて美味しいそうなので、ランチにいいかも!ですね。

懐かしい人も、初めての人も楽しめそうです。

 

JR二条駅

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JR二条駅はよく見ると面白い形をしています。

屋根は大きな木造トラスで覆われたデザインで、何だか船を逆さまにしたような?

1997年にグッドデザイン賞を受賞しているそうです(笑)

けっこう見晴らしがよくて、遠くまで見渡せます。

ç¾å¨ãå±ç¤ºå®¤ã¨ãã¦å©ç¨ããã¦ããæ§äºæ¡é§èï¼äº¬é½å¸ä¸äº¬åºï¼ 「京都新聞」より

二条駅は今の駅舎ができるまでは瓦葺木造二階建ての入母屋造建築で、まるでお寺の様な立派な建物でした。

嵯峨野線の高架工事が終わると、1996年に駅舎としての役目を終えました。

そして同年「京都市指定有形文化財」に指定され、梅小路蒸気機関車館に移築。

現在は京都鉄道博物館に展示されているそうですよ。 

 

駅の西側 

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旧駅舎の時代は、東側の千本通からしか駅に入ることができなかったのですが、今は東西どちらにも出入り口があり便利になりました。

地下鉄の乗り場は西側です。 

通り抜け自由なので通路のように東西に行き来できます。 

 

駅の西側には「BiVi二条」や「京都コープ」「くら寿司」などがあり、西側もまた全く違う街に変身した感じですね!

確か以前は、古い家屋がたくさん立ち並んでいたように記憶しています。 

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マンションもたくさんできました。

 

JRの駅と地下鉄の駅があってスーパーもある。

しかも映画館やレストラン、カフェ、いろいろなお店が入った商業施設がある。

絶対便利ですよね!

私も住んでみたいかも(笑) 

 

変貌を遂げた二条駅界隈から変わらない二条城へ

90年代のJR嵯峨野線の高架工事と二条駅の建て替え、地下鉄東西線の開通、そして駅周辺の再開発で、二条駅界隈の街並みはすっかり変貌を遂げました。

以前の閑静で地味なイメージが一変。

綺麗で(お洒落とは言えないけど)便利な街に生まれ変わりました。

 

一方で二条城は何にも変わらず悠然と佇んでいて、何だか心が落ち着きます。

変わっていく街の中に"変わらない歴史の証"があるところが、京都の面白さですね。

 

 

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エアコンが効かない!京都の夏を乗り切るために私がした2つのこと

京都は夏の猛暑日の日数が毎年のように日本一です。

"平成最後の"祇園祭が終わり、8月に入っても暑さは収まる気配なし!

エアコンが効きにくくて、もう大変です!

そんな暑すぎる京都の夏を乗り切るために、私がした2つの対策について書いてみました。

 

猛暑日の記録

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7月は猛暑日の連続記録が12日。

記録更新とはいかなかったものの7月14日から25日まで連続で38度を超えました。

さらに39.8度を記録した日も!

猛暑のため花傘巡行は中止になってしまいましたが、平成最後となる祇園祭が無事に終わってホッとしました。

 

でも8月に入っても猛暑はほぼ毎日続き、もう限界です(泣)

煉獄の毎日ですよ。 

 

異常事態

私の家は木造の二階建てですが、家の中でも廊下・玄関・洗面所・トイレはもう地獄!気分が悪くなるような暑さです。

エアコンの効いてる部屋の中と効いていない場所との温度差で、体調を崩しそうです。

しかも家から一歩でも外に出ようものなら、サウナ、本当にサウナ!

息が苦しくてクラクラします。

 

猛暑が続いたせいか、買って10年くらいのエアコンが効かなくて困ってしまいました。

18度に設定しても部屋は30度にしかならず、ついに買い替えかと思っていましたが、ちょっとした対策でとりあえず大出費は回避できました(笑)

  

私の猛暑対策

エアコンが効かなくて困っていたら、「室外機にカバーをかぶせるといいよ」と友人が教えてくれました。

でも近所で使っているお家はなく、迷ったあげく買ってつけてみることに!

色々な種類がありましたが、どうせ消耗品だし安いもので試してみました。

 

 

効果抜群!とまでは言えませんが、そこそこの効果はありました。

30度あった室内が26~27度でキープできています。

試してみるものですね!

今年の夏の大ヒットです(笑)←私の!

 

もう一つの猛暑対策は、地味ですが打ち水です。

夕方陽が傾いたら、庭や花壇だけではなくホースで屋根や壁やドア、ガラス、塀まで水をかけます。

水を無駄にしているようで心苦しいのですが、夜の室温がまるで違ってくるので、電気代は節約できそうです。

 

ちなみに、春先に植えて綺麗に咲いていた花はことごとく枯れてしまいました。

以前にも猛暑の年に枯れてしまったことがありましたが、今年は軒並みアウト(泣) 

荒れ放題(笑)

暑すぎて、何とかしようという気にもなりません…。

困ったことです。

 

まだまだ暑さは続きますが、何とか元気に乗り切りたいですね。

 

 

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7月の嵐山は川開きの神事と鵜飼で始まりました

嵐山の7月は大堰川の川開きと鵜飼で始まります。

今年の夏は今まで経験したことがないような猛暑ですが、水辺は風もあって少しだけ涼しいように感じます。

 

大堰川の夕暮れと鵜飼

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嵐山渡月橋の上流は大堰川(おおいがわ)といいます。

そろそろ夕暮れ。

薄桃色の空を映して水面は薄紫に染まりはじめました。

 

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7月1日は川開きの神事があり、夏の風物詩"鵜飼"が始まる日です。 

嵐山では平安時代から"鵜飼"が行われていたそうですよ。

鵜匠の装いは昔ながらの風折烏帽子(かざおれえぼし)と腰みの。
船の上から鵜をつないだ手綱を引いて鮎などを捕らせます。

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子供の頃は"鵜飼"の意味がよくわからなくて、鵜がせっかく捕った魚を取り上げてしまうのはかわいそうだと思っていました。

鵜匠が鵜の喉を掴んで魚を吐き出させるからです。

「そんなことしたら鵜が食べられへんやん」と…。

 

実際、野生のウミウを捕まえて鵜匠が訓練しているそうです。

鵜の喉に紐を巻いてあるので、それ以上の大きさの魚を飲み込めないようにしているとのこと。

紐の巻き加減で捕る魚の大きさを決めていて 、それより小さい魚は飲み込めるそうですよ。 

そうじゃなかったら、いくら鳥でもやる気なくしちゃいますよね(笑)

ストライキです!

それにしても鵜ってけっこう大きいですね。

 

大堰川に浮かんだ屋形船

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川開きの日は屋形船がたくさん出て賑やかでした。

提灯やかがり火は風情がありますね。 

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提灯には"鵜"がデザインされています。 

嵐山の鵜飼は9月23日までです。

 

自然への畏怖

7月は各地に深刻な豪雨災害をもたらしました。 

京都では5日から大雨になり、一晩中ケータイの避難勧告が鳴り続けました。

私の家は大丈夫でしたが、もの凄い雨の音と桂川が氾濫しないか心配で眠れませんでしたね。

岡山、広島、愛媛など被害にあわれた方があまりにも多くて、言葉にすることができません。

 

自然の怖さを改めて感じた7月です。

 

 

 

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新春の琵琶湖ドライブは最高でした!“空と雲と琵琶湖”それだけでいいと思える眺め

お正月休みに琵琶湖へドライブに出かけました。ちょうど半年前です。

写真の整理をしていたら、この季節外れの涼感半端ない写真が出てきました(笑)

 

新春の湖岸道路を行く 

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京都東インターから名神高速に入って瀬田東インターで降り、湖岸道路に出ました。

お正月休みの割に道は全然空いていて、まるで貸し切りの様なこの景色!

「新春」とはいえ真冬なので風が冷たい!

そしてこの空模様!

いかにも寒そうです。

が、逆に今見るとものすごく涼しそう!

"どこでもドア"があったら、今すぐ入りたいですね(笑) 

 

琵琶湖大橋を渡って

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絵のように美しい湖岸道路を北に向かって走り、琵琶湖大橋を渡りました。(150円)

普通車では橋からの景色はほとんど見えません。

観光バスなら見えるかもです。

湖に浮かんだ琵琶湖大橋の景色は、絵葉書のように綺麗でした。 

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橋を渡り切った西岸にある「道の駅 びわ湖大橋米プラザ」 です。

近江米をはじめ地元の農産物の特売所や、琵琶湖の名産、お土産物の売り場がありました。

ひこにゃんグッズもありましたよ!

レストランには、地元野菜を使った地産地消メニューがいろいろあってなかなか美味!

席から琵琶湖の景色が見渡せて気持ちがよかったです。

 

浮御堂はパノラマビュー! 

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道の駅から南に向かって走ること約10分弱、近江八景堅田落雁」で知られている浮御堂に立ち寄りました。

正式名称は「満月時浮御堂」。

平安時代に恵心僧都が建立し、その後再建や修理が行われてきたそうです。

 

本当に水に浮かんでいるみたいですね!

中に入るとけっこう風がありました。

1月だったので、備え付けのスリッパをはいても足が氷のように冷たかった記憶があります(笑)←今なら嬉しいかも!

お堂は周りをぐるっとまわれるので、360度パノラマビューでした。

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お寺のお庭↑↑↑ 

 

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琵琶湖大橋↑↑↑ 

  

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旅館↑↑↑ 

 

空と雲と琵琶湖

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青い空、白い雲、ゆったりと豊かな水をたたえた琵琶湖。

それだけで十分すぎるぜいたくな眺め。

何もかも忘れて心が透き通っていく感覚。

これこそが私の愛する琵琶湖の魔法です。

 

何もかも包み込んで癒してくれる琵琶湖の水。

清冽な美しさに言葉はいりません。

"空と雲と琵琶湖"

それだけでいい。

それだけでいいと思える眺めに癒され、前向きに頑張れそうな気持ちになりました。

 

 

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大学生だった私の"お酒にまつわる3つのエピソード"

初めてお酒を飲むことを覚えたのは大学時代です。

多くの学生は、河原町木屋町先斗町などに繰り出して遊んでいました。

京都の夜の街は、学生や、会社員、観光客などでいつもいっぱいでしたね。

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大学生だった私のお酒にまつわる3つのエピソード

エピソード1

大学に入ったばかりの1回生の頃には、クラスの友達とよく遊びに行きました。

河原町阪急前とかBAL前で待ち合わせて、買い物したり映画を観たりご飯を食べたり。

フツーですね(笑)

 

ある日、ディスコに行こうということになり、ちょっとおしゃれして出かけました。

初めて入るけっこう大人っぽい感じのディスコで、カクテルを飲みながら話しをしたり踊ったりしてご機嫌だったんです。

それまで…。そう意識がなくなるまで…

なんと気を失ってしまったんです!

アルコール弱いのはわかっていたので、少ししか口にしていないつもりだったのに。

何てこと!

ディスコの制服のお兄さんにソファまで連れて行ってもらって、おしぼりとかお水をもらいました。

恥ずかしかったなあ!

そのお店には、その後一度も行ってないですね(笑)

 

エピソード2

女友達と3人で、河原町通からちょっと東に入った辺りでご飯を食べていた時のこと。

近くのテーブルに座っていた男子3人が声をかけてきて、一緒にカラオケに行くことになりました。

彼らは京都の某私大生で同回生でした。

お酒も入っていい感じで次々と歌っていきました。

でも、楽しかったのはそこまで!

彼らはけっこう飲んでいたと思います。

その中の一人がマンションに住んでいるということで、そこへ行こうと執拗に誘い始めたんです。

断っても断っても一歩も引かないので困ってしまいましたね。

真面目な証拠だとか言って、学生証まで出してきたのには笑いました!

何とか上手に言って帰ってきましたが、スマホのない時代なのでそれっきりです。

 

エピソード3

サークルのコンパは、大体お店が決まっていました。

その中ではオシャレな感じのカフェバー(←古い!でも当時は流行ってたよ)が、私はお気に入りでした。

そこは最初に頼んだお酒を飲んでしまったら、空のグラスと次に飲みたいお酒を交換してくれるのです。

グラス交換っていってましたね。

お酒が弱くてすぐに酔ってしまうくせに、いろいろなお酒が飲んでみたかった私。

後輩ができたのをいいことにずるいことを思いついたのです。

それは一口飲んだあと後輩に飲んでもらって、また新しい違うお酒を飲むということ。

次から次へと一口飲んで男子の後輩たちに引き受けてもらいながら、いろいろなお酒の味を試していきました。

しかしいくら一口とはいえ、いろんな種類のお酒をごちゃまぜにして飲んでいるうち、すっかり酔いが回ってしまいました。

そして後輩たちに、多大な迷惑をかけたのでした(笑)

あとで先輩にずいぶん叱られましたね(泣)

 

今思うこと

これらのエピソード以外にもいろいろなことがありましたが、私の場合は大きな失敗もなく楽しいお酒が多かったですね。

「酔っぱらって朝起きたら、知らない人が隣に寝ていた」なんて経験をしたことがある人なんて、ホントにいるんでしょうか(笑)

少なくとも私の周りにはいませんでしたね。 

 

それにしても、最近の学生はあまりお酒を飲まなくなったといわれています。

近頃は、夜の河原町木屋町辺りでも、遊んでいる学生が少なくなったと思います。

また木屋町界隈は、学生や若い女の子が、気軽に安心して遊べる雰囲気ではなくなったようにも感じます。

何だかちょっと寂しい気がしますね。

 

 

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京都 八坂神社の階段下が「コンパ」の集合場所だった頃

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7月の祇園祭で有名な八坂神社は、四条通の東の端にあります。

最近は初詣で訪れるくらいですが、学生の頃はよくここで「コンパ」の待ち合わせをしたものです。

今の学生は「あまりお酒を飲まなくなった」と言われていますが、当時はその反対。

「お酒で始まり、お酒で終わる」と言ったら言い過ぎでしょうか?

日本が好景気に沸いていた頃のお話です。←浮かれていた?(笑)

 

八坂神社の階段下 

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待ち合わせ場所だったのは、この階段あたりです↑↑↑↑↑ 

今ほど観光客も多くなく、ここで待ち合わせをしているグループは多かったですね。

この周辺は祇園や先斗町、円山公園があり、京都で一番飲食店が多いエリアです。

 

当時は四条河原町の南東角にあった阪急百貨店と並んで、待ち合わせ場所になっていました。

午後6時くらいになると、階段は人でいっぱいでしたね。 f:id:yuluttoKyoto:20180618235001j:plain

階段からは四条通が見渡せて視界良好!

「誰々が来た!」とか言いながら手を振ったりしていました(笑)

 

初めてのクラスコンパ 

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私が初めてお酒を飲んだのは「クラスコンパ」の時です。

入学式の後に分けられたクラスでの初めてのコンパでした。

4月の初めくらいだったと思います。

八坂神社の石段の下で待ち合わせて、みんなで円山公園内のお店に向かいました。

かがり火の焚かれたそのお店は和風の造りで、着物の仲居さんたちが出迎えてくれまし

た。

その当時私たちは、高校を卒業したばかりだったので(浪人も結構いましたが)、そういうお店はほとんどが初めて!

 

クラスが始まったばかりでまだ名前もよくわからないので、とりあえず「あいうえお」順に座っていくことに。

あまり知らないもの同士で、いきなり「すき焼き」というのは、なかなかハードルが高いと思いますが、そこは学生ですよね!

何とかなってしまうのです。

そしてビールで『乾杯』!!!

ちょっと待った!この時私を含むほとんどの学生は十代だったはず。

しか~し、担任の先生とかや仲居さんが一緒にいたにもかかわらず、別にフツーに乾杯は始まりました。

そうなんです。

私たちが大学生だった頃は、たとえ未成年であっても、大学生がお酒を飲むことが大目に見てもらえていました。

というより、誰も異議を唱えない位フツーのことだったんです。

 

今の学生はお酒をあまり好まない上、飲酒年齢の規制も厳しくなったそうです。

新入生歓迎コンパもジュースで乾杯しているとか。

当たり前のことなんですが、何だか違和感を感じてしまいますね(笑)

 

みんなで楽しく「すき焼き」を頂いて外に出ると、すっかり暗くなっていました。

二次会があるということで四条通りを歩きましたが、夜の祇園は初めてで何だかドキドキしたのを覚えています。

 

多かった飲み会

当時の学生はお酒を飲む機会が多かったと思います。

クラスやゼミ、サークルのコンパが一年中いろいろありました。

それに加え、今でいう「女子会」でもよくお酒を飲みに行きました。

合コンに行ったこともありましたね。

私はアルコールに弱くて少ししか飲めませんでしたが、そういう席に参加することが楽しかったんだと思います。

 

特に印象に残っているのは、サークルのコンパです。

春にはお花見と新入生歓迎会、夏にはビアガーデン、何かの後には決まって打ち上げ、クリスマスパーティー、忘年会、新年会、送迎会…。

お店を貸し切りのこともありました。

人数も多く、今考えると幹事さんはかなり大変だっただろうと思いますね。

今さらながら「本当にごくろうさまでした」という感じですね(笑)

 

「お酒」には、楽しかったこと、悲しかったこと、失敗したことなど、たくさんのエピソードがあります。

今となっては、どれも懐かしいですね。

 

 

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「未成年飲酒」っていつからこんなに厳しくなったんだろう?

TOKIOの山口、NEWSの小山と加藤に続き、今度は手越も「未成年と飲酒」との文春砲がありました。

「ジャニーズ、またお前か!」と言いたいところですが、そもそも「未成年飲酒」っていつからこんなに厳しくなったんでしょう?

 

NEWSと飲酒

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NEWSの小山と加藤が未成年の女性と飲酒していたとの報道がありました。

小山は活動自粛、加藤は厳重注意だとか…。

その上、今度は手越も文春砲です。

古い話ですが、そもそもNEWSは未成年飲酒でメンバーが抜けた過去があります。

その後もお酒がらみを含めいろいろとあり、とうとう4人になってしまいました。

だからNEWSは、絶対に飲酒で失敗しないでもらいたかった…。(あかんやん!)

 

自分たちも襟を正していかなければとか思ってこなかったわけ?

お酒にはよっぽど気をつけなければ足をすくわれるとか学んでこなかったわけ?

事務所の先輩だったTOKIOの山口が事件を起こした時、自らの番組で批判的なコメントをしていたのにそれはないよ!

 

いろいろな意味で今回の一連の報道には笑ってしまいました。

 

報道番組のキャスターに求めるもの

報道番組のキャスターに対しては、"幅広い分野に精通した知識を持ち、報道に信念を持った専門職"というイメージを持っていました。

少なくても何年か前までは…。

 

そのイメージが変わったのは、タレントとりわけアイドルが起用されるようになってからです。 

アイドルが報道番組のキャスターや情報番組のコメンテーターを務めれば、

「それまでその手の番組を見なかった若い年齢層が見るようになる⇒視聴率が上がる」

そういう安易な図式の視聴率狙いで、次から次へとジャニーズのタレントが起用されてきましたよね。 

どの局もどの局も、しつこいくらいに…。

その結果が今です。

 

キャスターが公平で自由に発言するためには、海外のメディアがそうであるように他の仕事と兼業するのではなく専門職であるべきだと思うのですが、どうでしょうか? 

  

ジャニーズ事務所コンプライアンス

ジャニーズ事務所が不思議なのは、不祥事がある度にタレントに番組で謝罪させることです。

事務所の偉い方たちは誰も出てこない!

神妙な顔で謝罪するわりには、次から次へ同じような問題が出てくる…。

特にお酒がらみ、女性がらみ、車がらみ(笑)

 

そして毎度毎度「お抱えのマスコミに忖度させ、できることならスルーしてしまおう」というやり方!

ジャニーズ事務所コンプライアンスって、一体どうなってんの?

 

事務所の体質が変わらない限り、同じことが繰り返されていくのは仕方がないのかも!

 

「未成年飲酒」について思うこと

私が学生だった頃、大学に入学すると「クラスコンパ」や「新入生歓迎コンパ」がありましたが、飲酒に対してはすごくおおらかだったと思います。

「クラスコンパ」には担任の教授が同席していたし、「新歓コンパ」は成人の先輩がほとんどでした。

新入生は18歳と19歳でしたが、ビールで乾杯して飲んでいましたね。

強要はされなかったけど(笑)

でもこれって立派な「未成年飲酒」ですよ!

時代ですね~。

 

今は学生の飲酒にも厳しくなったそうです。未成年はジュースで乾杯だって!

そもそも「未成年飲酒」っていつからこんなに厳しくなったんでしょう?

一気飲みや先輩からのお酒の強要が問題になった頃からでしょうか?

 

22年から成人年齢が18歳に引き下げられますが、飲酒と喫煙は今のままだということです。

「未成年飲酒」にはくれぐれもご用心を!

 

 

 

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京都 太秦大映通りをゆるっと歩けば昔ながらのお店たちに懐かしさMAX!

どこか懐かしい太秦(うずまさ)大映通りをゆるっと歩きました。

う~ん、この感じ。まさに昭和の雰囲気です。

 

 ゆるっと大映通り 

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大映通りは嵐電太秦駅帷子ノ辻駅の間にあります。

もともと三条通りのバイパスだったようです。 

 

大映の京都撮影所など、映画の撮影所とともに発展してきた大映通り商店街

今では映画をモチーフにした街づくりで、"キネマストリート"と呼ばれて親しまれています。

でも街灯が映画のカメラの形だったり、道路がオレンジ色の映画フィルムのデザインに舗装されている以外は、いたって普通の商店街なんですが(笑)

 

かつて映画作りが盛んだった頃の、いろいろなエピソードが残っているのは確かですね。

地元には、「誰々監督の映画にエキストラで出演した」という方が沢山いらっしゃいます。

かつてほどの勢いはもうありませんが、松竹や東映の撮影所もあります。

 

面白いネーミング

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キネマ・キッチン│京都に住もう

http://www.elitz.co.jp/kyoto/play/play_detail_04_02.html

「うずキネマ館 キネマ・キッチン」は2013年にオープンしました。 

映画関係の雑誌や台本が置いてあるほか、古い機材や懐かしの銀幕スターのパネルが飾ってあります。

地域のお母さんたちがスタッフとして働いていて、お食事もできますよ。

それにしても名前がユニークですね。

太秦(うずまさ)の「うず」なんですね!

 

他の商店街と違うところといえば、ここくらいかな?

ただ、通りを少し入った所に立派なお料理屋さんがあったりするのは、映画が盛んだった時代の名残なんだろうと思います。 

 

昭和感がいっぱい!

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大映通り商店街には懐かしいお店がたくさん残っています。

商店街自体もゴチャゴチャしていて、昭和っぽい!

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ここの八百屋さんも懐かしい感じです。

サザエさんに出てきそう(笑)

以前はこういうお店がたくさんありましたよね?

お店のおじさんやおばさんと会話しながら買い物するのって、今となっては何だか素敵に思えます。

 

私が学生の頃、大映通り商店街は人や自転車で溢れかえっていました。

映画はもうあまり作られなくなっていたと思いますが、まだまだTVの時代劇が盛んだった頃です。

水戸黄門暴れん坊将軍、必殺仕事人、鬼平犯科帳…。

父が楽しみにしていたので、私も時々見ていました。

 

時代劇って全くなくなってしまいましたね。

どうしてなんでしょう?寂しいです…。

それと比例して、大映通り商店街の人の波も引いてしまいました。

 

また時代劇のブームが来ないかなあ 。

 

 

 

 

 

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