80年代の受験の大変さについては、前回書いた通りです。
今回は晴れて京都の大学に合格してから入学式を迎えるまでを書きます。
大学が決まるまで
80年代は受験生の数が多いだけでなく地方入試もまだそんなに多くなくて、地方の高校生にとっては大変でした。
関西で人気があった関関同立(関西・関西学院・同志社・立命)は、偏差値が60以上あり競争率も非常に高かったですね。
私は滑り止めをいれて4回ほど受験しました。
待ちに待った合格通知が届いた時は本当にうれしかったですね。
合格した中で第一志望だった京都の大学に入学手続きをしました。
三月には卒業の余韻もそこそこに国公立の二次試験がありましたが、こちらの方はちょっと残念な結果でした(涙)
ただ私は京都で暮らせることへの期待の方が大きくて、何だかワクワクするような感じでしたね(笑)
京都で下宿探し
そういう事情で大急ぎで住むところを探すことに!
3月の何日かは忘れてしまいましたがとても天気のいい日でした。
両親とともに住むところを探しに京都に来たんですよね。
京都にはなじみがなかったのでとりあえず大学の下宿案内の窓口に行きました。
ところが「紹介できるところはもうあまりないんです。」と言われ、いきなり焦ってしまったのです。
窓口の方の話によると「私大志望の学生から順に決まってしまうのでこの時期になると少なくなる」とのことでした。
残っているところで3~4件くらい紹介してもらい地図を片手におしゃべりしながらブラブラ見に行くことに。
今となってはとても懐かしい思い出です。
結局3番目に見に行った、女子学生用のアパートに決めました。
玄関を入ると、台所と洗面所、トイレ、ランドリーが共用で一階にあり、各個室は1階と2階に12室ありました。
そこのアパートが運よく一室だけ空いていたのです。
当時は、そういうタイプの下宿やアパートが、まだマンションよりちょっとだけ多かったように思います。
ということで、大家さんにも挨拶を済ませ、その日は自宅に帰りました。
そしていよいよ引っ越しの準備です。
家具や電気製品などひと通りのものは大学生協に申し込むことができたので、本当に便利でした。
コロナ自粛中に片づけていた段ボール箱の中に、その時の大学生協のパンフレットを見つけました!なんでとっておいたのか不思議ですよね(笑)
それでも手持ちの衣類やら何やら、結構な荷物になりましたね(笑)
3月の終わり頃、ついに京都に出発しました。
独り暮らしの始まり
京都駅はめちゃくちゃ混んでいて目が回りそうでした。
今の京都駅舎ができる前のことですが、その当時から春の京都駅の混雑は相当なものでしたね。
下宿に着くと大家さんに挨拶をしに行きました。
一回生は私を入れて4人。あとは同じ大学の先輩たちだったので少し気が楽でしたね。
ガスコンロや洗濯機、乾燥機などの使い方や、共有のルールを教えてもらいました。
大変だったのは、私より先に着いていた沢山の荷物の梱包を解かなければならなかったことです。
足りないものは近所の商店街で買い揃えました。
その晩は初めての独りご飯。
京都駅で買ってきたお弁当でしたが、寂しくて味気なくて……。
家族の暖かさが恋しくて、泣きそうな気分でしたね(笑)
でも大変だったのは、それからです。
知らない所で知らない人たちと一緒に生活して、しかも自炊しながら大学に通うわけですから。
「ろくにお料理もできない自分が本当にやっていけるのかなあ」っていう不安でいっぱいでした。
でもやってみればなんとかなるもんなんですよ!
キッパリッ!!
入学式は学生で大混雑
そしてついに入学式の日がやってきました。
今思えばこの日から新しい人生が始まったんですね。
入学式は、とにかく学生の数が多くてびっくりしました。
スーツ姿の新入生、家族、上級生などでごった返していて、前に進むのがやっとという状態!
会場の中でもあまりの人の多さに気おされてしまいました。
式のことはあまり覚えていません(笑)
吹奏楽部の演奏が記憶にちょっと残っているくらいかな♬
式が終わって外に出てきたら、サークルの先輩たちの勧誘がすごくてまたビックリ(笑)
右からもビラ。左からもビラ。「旗か?」と思う位はためいていましたね。
無理やり押し付けられたビラを仕方なくもらって帰ったのを覚えています。
結構な枚数でしたが、どのサークルに入るかなんてまだ何も考えていませんでした。
次の年にはビラを配って(押しつけて)勧誘する側になることなどまだ知らなかった私です。
よろしければお願いします!
>