ゆるっと京都 de スローライフ

日々の気づきを発信している雑記ブログ!

80年代に人気だった音楽♬

80年代に学生だった私たちの間で人気のあった音楽はといえば、真っ先に何が浮かぶでしょうか?

80年代には、演歌や歌謡曲、フォーク、ニューミュージック、洋楽など、多種多様な音楽が溢れていました。  

70年代から受け継いだ音楽の花が、次々と咲き始めたのが80年代だったのではないかと思います。

 

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80年代はアイドルの全盛期

その中で忘れてはならないのが、80年代アイドルの存在です。

1980年に、キャンディーズに続いて、山口百恵、ピンクレディといった70年代を代表するアイドルたちが次々と引退や解散をし、アイドルの大転換期が訪れました。

そして入れ替わるように台頭したのが松田聖子です。

彼女は美声を生かした歌唱力と可愛らしさで、瞬く間にトップアイドルに名乗り出ました。

街にも芸能界にも「聖子ちゃんカット」の真似をした女の子がたくさんいましたよね。(笑)

「ぶりっ子」という言葉も流行しました。

彼女の髪型やメイクはものすごい影響力でしたね。

 

そして河合奈保子、柏原芳恵、松本伊代が続いてデビュー。

さらに花の82年組と呼ばれた中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、早見優、石川秀美、三田寛子などがデビューしました。

そうそうたる面々ですよね。

今もほとんどみんな残っています。

他には角川映画で人気だった薬師丸ひろ子、原田知世。

ドラマから人気になった中山美穂、南野陽子、浅香唯。

そしてその他にも荻野目洋子、岡田有希子、斉藤由貴、菊池桃子、本田美奈子、おニャン子クラブ、西村知美、酒井法子、森高千里、Wink、西田ひかる、宮沢りえなどがいました。

 

アイドルの人気推移

やっぱり、聖子か明菜か?っていう感じで人気を二分していました。

私は聖子派でしたね(笑)

今でも二人のヒット曲はほとんど歌えます。  

でも振り返ってみれば、松田聖子はスキャンダルを力に替えるだけの強さがあったけど、中森明菜は弱かったのかなっていう感じでしょうか。

そしてまず、松田聖子の結婚と出産が、アイドル人気の流れを変えたようです。

さらに聖子、明菜のスキャンダルで、人気アイドルは下の世代へと移り変わっていきました。  

 

特におニャン子クラブの勢いはすごかったですね。

今のAKBの前身ような感じでしたね。

普通の高校生から次々とアイドルが生まれていきました。

 

80年代の人気男性アイドルは?

なぜか当時の私は男性のアイドルにあまり興味が無く、女性のアイドルの方が好きでした。

ファッションやメイクの参考にするだけでなく、彼女らの生み出していく流行にいつも興味を持っていましたね。

ちょうど年齢的に同世代だったからかも知れませんが、「男性アイドルなんてガキっぽい!」とか思っていました(笑)

私の周りもそんな感じだったように思いますね。

 

でも80年代は男性アイドルも大人気でした。

“金八先生”から人気になった、たのきんトリオこと田原俊彦、近藤真彦、野村義男。

“仙八先生”から、シブがき隊こと薬丸裕英、布川敏和、本木雅弘。

“スクールウォーズ”の松村雄基。

“太陽にほえろ”の渡辺徹。

沖田浩之、風見慎吾、吉川晃司…。

 

そして忘れてはならないのが、藤井フミヤがボーカルを務めたチェッカーズ。

デビュー当時から、とびぬけて上手かった記憶がありますね。

当時としてはちょっと奇抜な髪型やファッションも話題でした。

 

ジャニーズからは少年隊、光GENJI、男闘呼組。

 

ただ80年代のアイドルは10代20代がほとんどでした。

今のように30代40代でアイドルというのは、タレントとしては中途半端なようにも思います。

演技も歌もダンスも本職にはかなわないかも?

 

それにしても80年アイドルについて私がすごいと思うのは、そのほとんどが今も現役で活躍していることですね!

同世代としてとても励みになります。

これからも体に気をつけて頑張っていってほしいものです。

 

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80年代 私の下宿生活の3つの不思議な出来事!

80年代の半ばから4年間住んでいた下宿はお風呂もない女子専用のアパートでした。

楽しいこともたくさんありましたが、しんどいことも同じくらいありましたね。

どれもみんなかけがえのない経験です。

 

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下宿に住んだ理由  

マンションに住む学生が増えつつある中、私はプライバシーがあるようでない下宿に住み続けました。

もちろん、「お金がかかるから」ということも理由の一つでした。

マンションの礼金、敷金に加え、引っ越し代を含めるとけっこうな出費でしたから。  

 

でも私が同じ下宿に住み続けたのは、人と関わることが好きだったからだと思います。

同じ大学の人たちと一つ屋根の下に暮らすという『安心感』や、会えばあいさつを交わし時には話もする『人とのコミュニケーション』こそが、私にとってとても大切だったのかも知れません。  

もちろん、人と関わることは心地いいことばかりではありません。

気も使うし、時には嫌な思いもします。

でもそれらを全て差し引いても、ある余るほどのステキな体験ができたと思っています。

 

下宿生活の3つの不思議な出来事!

廊下や台所で会えば、いつも長~い立ち話で盛り上がっていた私たち同学年の4人。

その4人が、顔を合わすたびに不思議がっていた出来事がいくつかありました。 

 

不思議1  

私の下宿は女性専用のアパートで、2階建ての建物に女性ばかり12人が常時暮らしていました。

よくあることかも知れませんが、下着泥棒がよく出たようです。

私は幸い被害にあったことはなかったのですが、すごく気持ち悪かったですね。

洗濯物は、物干し台と各部屋の窓に取り付けてあった物干しざおに干していました。

やっぱり乾燥機は強い味方でしたね!

 

それより私が気になっていたのは、玄関に取り付けられた『男性入室禁止』の札です。

これはかえって『女子しかいないよ』という、宣伝になっていたのではないかと思えてならないのです(笑)

 

不思議2  

廊下の突き当りにクローゼットがあり、そこには誰かが買って読み終わった本や雑誌、漫画などをいれるようになっていました。

1年の終わり(3月)には使わなくなった教科書や辞書なども入れてあり、同じものを使う人にとってはありがたかったようです。

ファッション雑誌や月刊・週刊漫画は特に重宝で、みんなで順番に読んでいましたね。おかげで何種類も読むことができて、本当にいいシステムでした。    

 

でもある時から『ボーイズラブ・ガールズラブ』の雑誌や漫画が入っていたのです。

これはちょっとした事件でしたね(笑)

誰だ誰だと騒ぎになりました(小声でしたが)

同じ下宿に同性愛の人がいたらちょっと…ですよね。

でもついに誰なのかわからずじまいでした。 

 

不思議3   

私が1回生の時のことです。

当時の4回生でテレビに出れそうなくらい綺麗な方がいました。

でもなぜかいつも留守で、週に1度くらいしか帰ってきませんでした。

しかも帰ってくるとずっと洗濯機と乾燥機を独り占めするんです。←迷惑です!

で、またどこかへ出かけてしまう。

電話の取次ぎとかも、いつも留守なのでドアがメモだらけでした。  

これもすごく話題の的(笑)

 

でもある日、見てしまったんです。

大きな荷物を抱えて、彼氏のバイクで颯爽と走っていく美しいお姉さんの姿を。

風の噂によると、卒業してすぐに結婚されたそうです!

 

 

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80年代 京都の大学生だった私の下宿生活

80年代の半ば、私は京都の大学に入学し初めて親元を離れて下宿生活を始めました。

4年間の独り暮らしのスタートです。

最初こそいろいろ不安でしたが、ゴールデンウイークあたりを境に大学にもだんだん慣れて落ち着き始めました。

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下宿生活のルール

独り暮らしといっても私の下宿は1階と2階に12室ある女子専用のアパートで、1階に共用の台所と洗面所、トイレ、ランドリーがありました。

下宿人も同じ大学の人だけなので、マンションに比べるとかなり気楽で安心感がありましたね。

廊下や台所などの共用スペースで顔を合わせると、みんな笑顔で挨拶をしていました。

 

でも、ちょっとした気遣いも必要でした。

例えば、誰かが洗濯機を使っていたら終わりそうな頃を見計らって使うとか…。

これは台所も同じです。

また調理した後は生ゴミを捨てたり、台ふきで掃除してキレイにしておくとか。

当たり前のことですが…。

それでも、そういう気遣いができない人が何人かはいるものです。  

生活していくうちに、「いつも汚しっぱなしなのは誰か?」

だんだんわかってきたりしました(笑)  

 

私の下宿は大家さんが几帳面な方だったので、いつもキレイに掃除をしてくれて洗面所やトイレ、廊下などはいつもピカピカでした。

大家さんがいるというのは、何かと心強かったですね。

月に一度、学生が読み終わった新聞や雑誌を古紙回収に出して、もらったポケットティッシュを玄関のくつ箱の上に置いといてくれました。

大阪のおばちゃんのように、独りでたくさん貰っていくような人はいませんでしたね。

二十歳前後の女の子ばかりでしたからね(笑)

 

お料理は修行!?

私にとって一番大変だったのはお料理です。

家庭科もあんまり得意ではなかったし、家にいる時はお手伝い程度しかしてなかったのでとても不安でした。

独り暮らしを始める前に母から特訓を受けたのですが、やっぱり心配でしたね。

それと最初の月は仕送りからひと月の食費をどうやり繰りして買い物をしたらいいのか、全く見当がついてなかったように思います。  

朝食はコーヒーとトースト。

昼食はほとんど学食

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そして夕食はまさに修行の場でしたね。

 

最初の頃作っていたのは、ハムエッグに生野菜とか野菜炒め程度でした。

でもだんだん慣れてきて、お味噌汁や肉じゃが、炒飯などが作れるようになりました。わからないことは母に電話で聞きながらでしたが…(笑)

でも必要に迫られると何とかできるようになるものですね。

この修行のおかげで、お料理が少し好きになりました。

 

狭くても私の城

下宿の部屋はどの部屋も大きめの押し入れと板の間がついていました。

板の間には冷蔵庫が備え付けてあり、横に置いたラックの上にトースターや炊飯器をのせていました。  

台所は調理台と流し台、ガスコンロ、12人分に仕切られた大きなラック(調味料やお米を入れる用)が置いてありました。

少し不便でしたが部屋から材料を持って行って台所で調理をし、出来たものを部屋に運んで食べていました。

今はやりのシェアハウスはリビングに置いた大きなテーブルで食事しているようですが、どちらがいいのでしょう?  

みんな部屋に、冬になるとこたつとして使えるテーブルを置いて、その上で食事も勉強もしていました。

 

和室で畳の上に布団を敷いて寝て朝になるとたたんで押し入れに仕舞うのですが、これはなかなか合理的だと思いましたね。

狭い部屋を広く使う日本人の知恵でしょうか?

私の狭い部屋に友達を2人泊めたことがありました!

 

唯一不便だったこと

下宿には全自動洗濯機が2台と乾燥機があり、とても便利でした。

一つだけ不便だったのはお風呂がなかったことです。

近くの銭湯に行っていましたが、夜出掛けるのはおっくうなものです。

銭湯は歩いて5分弱のところと10分くらいのところにありました。

近所とはいえ雨降りなど天候の悪い時は嫌でしたね。

特に冬場はつらかったです。髪の毛が凍りそうでしたから。    

この頃の京都は学生の数が多く、お風呂のない下宿がたくさんありました。

そしてまだたくさんの銭湯がありました。

どこの銭湯サウナジェットバスなどがあって、すぐに疲れが取れたので嫌いではありませんでしたね。

ただ、同じ下宿の人に会うと何か極まりが悪いというか気恥ずかしくて、そそくさと出てきていました(笑)

 

楽しかった下宿生活

3回生になる時に下宿の契約更新がありました。

私は一緒に入った同学年の3人と離れがたく、また引越しの面倒くささもあって4年間同じ下宿に住み続けました。

大学の友達の中にはマンションにかわった人もいましたが、結局4人とも卒業するまで同じ下宿でしたね。  

プライバシーがあるようでないような下宿でしたが、一つ屋根の下で暮らしているせいかお互いの心配をしあっていました。

風邪をひいて熱が出た時など、買い物に行ってもらったりお薬を貰ったりしたこともあります。

誰かの部屋に集まって夜中まで話し込んだりすることも多かったですね。  

 

その反面、窮屈なこともありました。

門限が11時に決まっていて、遅くなる日はホワイトボードに名前と理由を書いておかなければいけない規則でした。

また、どこかの部屋で大きな声で騒いだりするとかなり迷惑でしたね。  

また面白いことや、不思議なこと、焦ったことなど,いろいろなことがありました。

それについては次回に書きます。

 

下宿はなくなってしまうのか?

今はほとんどがマンションになり下宿は廃れつつあります。

私が住んでいた下宿がどうなっているか見に行ったことがありましたが、すでに廃業していました。

昔ながらの下宿が、プライバシーを大事にしたい今時の学生に人気がないというのはよくわかります。

私も今の時代に学生だったら、きっとマンションを選んでいたでしょう。  

 

でもシェアハウスなど、人と繋がれる住み方がまた人気なのも確かです。

特に自然災害が多発している今、何かあった時に一人では心配だという声もよく聞きます。  

私は、下宿の4年間で得たものはとても大きいと思っています。

「人と関わり、遠慮し合い気を使い合いながらも、相手を尊重し大切に思いやる」貴重な体験でした。

同じ下宿で4年間を共にした3人とは、卒業や引っ越し、就職のドタバタした中で別れてから一度も会っていません。

スマホのある今だったらなあと少し残念に思います。

 

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80年代、私の周りにいた「ツッパリたち」!

地方都市で育った私の周りにも、「ツッパリ」たちはたくさん存在していました。

特に中学校の時がヤバかったですね。

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中学校時代の「ツッパリたち」

特に中学校時代は、喫煙・飲酒、万引き、バイクの無免許運転、シンナーなどで補導される生徒が多かったですね。

あと、夜中に出歩いたり…。眉毛をそったり、剃り込みを入れたり…。

特に制服をめぐっては先生とのバトルがありましたね(笑)

また尾崎豊の歌じゃないけど、教室の窓ガラスや備品、先生の車に悪さをする生徒もたくさんいて大変でした。

今思えば当時の先生たちは、本当にきつかっただろうと思います。

私の学校にも生徒に殴られた先生がいました。

また生徒とトラブって教師を辞めた先生もいましたね。

 

でも「ツッパリ」たちも、見た目はけっこうヤバい感じだったけど、小学校、なかには幼稚園から知っている生徒もいたので、何だか複雑でした。

どんなにいきがっても、お漏らししてたことや怖い話にビビっていた頃を知っているわけですから…(笑)

それに当時の「ツッパリたち」は、クラスの中にいても他の生徒に迷惑をかけたりすることはあまりなかったように思います。

ほとんどの「ツッパリたち」は勉強が苦手だったり、運動でも頑張って練習したりすることが苦手(?)でしたね。

根っからのワルではなかったけれど、いろんな意味で行き場のない自分を誇示するというか表現する方法が、「ツッパルこと」だったのでしょうか。

 

幼馴染が「ツッパリ」に仲間入り?

小学校からの幼馴染の女の子は中学校に入って勉強に全くついていけなくなり、「ツッパリ」の仲間に入ってしまいました。

家庭的にもいろいろあった彼女は髪も茶色にして眉も細く剃り、全く印象が変わってしまったのです。

でも学校の中で会うと、かわらず笑顔で話しかけてくれましたね。

外見に反して中身はあまり変わりませんでした。

私には今まで通りに接することしかできなかったけど、後で聞いたらそれが嬉しかったそうです。

彼女は中学校を卒業した後すぐに結婚したと風の噂で知りました。

「ツッパリ」たちのほとんどは卒業後、彼女のように結婚したりまじめに仕事についたりしたようです。

でも中には反社会的人生を歩んだ人もいると聞いています。

 

高校時代の「偽ツッパリたち」?

私の通っていた高校は進学校だったので、本物の「ツッパリ」はいませんでした。

駅前には今でいう「ヤンキー座り」でたむろしている「ツッパリたち」がいましたが、別の高校の生徒でしたね。

とはいえ、流行に敏感な高校生のこと。

わが校にも見せかけだけ(格好だけ)の「偽ツッパリたち」がたくさんいました。

問題行動といっても、喫煙か修学旅行での飲酒が見つかったくらいです。

十分問題ですが、今思えば何とも幼いというか、かわいい感じがします。(笑)

その「偽ツッパリたち」のほとんどは大学に進学しました。

中には教員警察官になった人もいますよ!

 

そして私が進学した大学ですが「ツッパリ」も「偽ツッパリ」も、当たり前ですが一人も見かけたことはありませんでした。

当時の「ツッパリ」の中心は十代でしたね。

 

 

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『今日から俺は!!』を観たら80年代に流行った「ツッパリ」が懐かしい!

『今日から俺は!』を観て 

80年代に「ツッパリ」は社会現象にまでなりました。

人気漫画でドラマ化や映画化された『今日から俺は!!』は80年代の「ツッパリ」を描いたものです。

かつて大ヒットした「ビー・バップ・ハイスクール」と似ていますが比べてみると、ずっとソフトでコミカルな印象を受けました。

長ラン、短ランににボンタンやドカンといわれる幅広ズボンは、今見ると漫画チックでコミカルですね(笑)

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『今日から俺は!劇場版』公式サイトより

80年代に流行った「ツッパリ」

70年代から80年代頃には「不良」のことを「ツッパリ」と呼ぶようになり社会現象にまでなりました。

今は「ヤンキー」っていう方がピンとくるかと思います。

確かに共通点はあるようですが「ツッパリ」と今の「ヤンキー」はちょっと違います。

  

80年代の「ツッパリ」は、主に中高生でした。

「荒れる学校」といわれたように、校内暴力の嵐が吹き荒れていました。

喧嘩や先生への反抗そして暴力です。

卒業式に警察に来てもらう学校もあったほどです。

そしてそれと並行して、世の中の流行にもその影響が現れました。

 

「ツッパリ」が流行に!

テレビドラマで人気だったのは「金八先生(第2シリーズ)」や「スクール☆ウォーズ」など。

映画では「ビー・バップ・ハイスクール」や「湘南爆走族」など。

そして「横浜銀蝿」などのツッパリソングもヒットしました。

 

「なめネコ」というとんでもないものまで流行りましたね(笑)。

学ランを着た猫の暴走族です。

子猫の無邪気な表情とのギャップもあって、大人気でした。

 

ツッパリソングではなかったけど尾崎豊の曲もヒットしました。

ご本人は残念ながら早世されていますが、曲は今でもよく流れています。

「盗んだバイクで走り出す~」「教室の窓ガラスたたいて~」「支配からの卒業」などといった歌詞が、当時の十代の心をとらえたようです。

学校の先生はあまり聴かせたくなかったみたいですが(笑)

 

「ツッパリ」の終焉 

学校や警察は校内暴力には手を焼いたようです。

その後の警察の取り締まりや学校の管理体制の強化で、だんだん学校現場は落ち着いていきました。

そして目に見える形では「ツッパリ」は姿を消していきました。

 

しかし、それにかわって社会問題になったのは「いじめ」です。

そしてこれは、今も答えの出ない難しい問題だと思います。

スマホの普及は、いじめの舞台を学校からネットの世界へとかえていきました。

陰湿ないじめのニュースを目にすると、かつての「ツッパリ」が何だか懐かしい気さえします。

 

何故でしょうか?

それは「ツッパリ」は仲間を大切にしたり、社会や大人の納得できない部分に対して反発していたからではないかと思いますね。

私の周りにも「ツッパリ」はたくさんいましたが、クラスの子をいじめたりすることはなかったし、けっこう“男気”がありました。

ただテレビや映画の様なカッコイイものではなかったように思います。

 

 

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80年代の修学旅行 ~高校2年秋~

生徒数が多かった80年代の修学旅行は大人数の大移動

楽しかった高校2年の秋のことです。

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生徒数の多かった80年代の修学旅行

都道府県によって行先は様々だったと思いますが、とにかく生徒の数が多かった80年代の学校。

遠足や特に修学旅行ともなると観光バスを何台も連ねての大移動でした。

 

学年全部の生徒が集合場所に集まるのも、クラス別に整列するのも大変でしたよね。

すごく場所をとるのでギュウギュウに詰めて並んでいました。

途中のトイレ休憩もまたしかりです。

誰が戻ってないかの点呼確認も、とても念入りだったように思います。

人数が多いから一人くらいいなくてもわからないので、先生が神経をとがらせていましたね(笑)

置いてきぼりになったら大問題ですから。

バスを降りてどこか見学するたびに、集合場所や集合時間をくり返し言われていたように思います。

前から順番に通し番号を言わされるんですが、何か年齢的に?ちょっと恥ずかしかったりして…。

よく声が小さいと叱られていましたね。

 

集合写真も各クラスが順番に入れ替わるので、とっても時間がかかりました。

一クラスに45人位いましたから、ひな壇に登ったり降りたりするだけで大変でした。 でも一番大変だったのは多分宿泊です!

 

当時の高校生の宿泊事情

修学旅行のお楽しみは何といっても宿泊ですよね!

普段は見れないクラスメート(異性)の素顔に、ワクワクドキドキでした。

みんなで大広間に集まって、一緒にご飯を食べるのも楽しかったですね。

そんなにおいしいものはなかったけど…(笑)

部屋割りは出席簿順に適当に決められていたように思います。

今の子たちは、好きなもの同士じゃないと泣き出したりするらしいですね。

私達の時代には考えられないです。

決められたことは、そういうものなんだと納得してた気がします。

 

同じ班の人たちとお風呂に行くのも、ちょっとした大騒ぎでしたね。

他人と大浴場に入る経験は修学旅行くらいのものですから。

最初はやっぱり恥ずかしくてタオルでガードしてましたね。

でもだんだん慣れてきて、そんなに仲良くしてなかった人とも一気に打ち解ける感じでした。

脱衣所では「髪の毛が濡れてるのに男子に会ったらどうしよう」みたいな話をしてたように思います。

部屋では、お決まりの恋バナ、恋バナ、恋バナ…(笑)

ずいぶん遅くまで起きて盛り上がっていたものです。

 

修学旅行で問題行動

夜通し、先生方は見回りで大変だったようです。

男子が女子の部屋へ入らないように、それと旅館を抜け出さないように。

中学校の修学旅行の時は、男子が女子の部屋に入り込んで先生に見つかり大目玉でしたが、さすがに高校ではそれはなかったようですね。

でも近くの高校では修学旅行後に女子の妊娠発覚があって、それこそ大問題になったと聞いています。

80年代はちょっとヤバい高校生たちがたくさんいた時代でした。

一方、ウチの高校の男子の部屋では、飲酒が見つかって大説教&反省会が始まったそうです。

 

今思うこと

私達の時代と違い携帯で何でもすぐに調べられて、連絡もすぐ取れる今の修学旅行生。

便利でいいなぁとも思いますが、何だかせわしなくて縛られているようにも思えます。

また、学校によっては海外研修も増えましたよね。

お金もかかるのでしょうが、いろんな経験ができてすごいなぁと羨ましくも感じます。

 

80年代は携帯もなく不便でしたが、特に困ったことはなかったように思いますね。

そんなに豪華でもなかったけれど、私にとっては本当に楽しい修学旅行でした。

忘れられない思い出です。

 

コロナの影響で

京都は毎年のように修学旅行生でいっぱいでした。

でも今年はコロナウイルスの影響で全く目にしていません。

早く終息するかワクチンが開発されて、修学旅行ができる日が来ることを心より願っています。

修学旅行に限らず「かけがえのない学校生活を健やかに送ることが出来ますように」と祈らずにはいられません。

 

 

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80年代の京都の大学で人気のサークル活動とは?

学生の数が多かった80年代の大学キャンパス 。 サークル活動も盛んでした。

学内には大学公認のサークルや同好会のほか、非公認の同好会がたくさんありました。

またいろいろな大学の学生たちで作ったサークルもあり、おそらく大学も把握し切れてなかったのではないかと思います。

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活発だったサークル活動  

この頃人気のあったスポーツといえば、やはりテニススキーです。

ただし雪のある時期しか活動できないスキーに比べて一年中活動できるテニスは特に人気が高く、どこの大学にもたくさんの同好会がありました。

クリス・エバートナブラチロワトレーシー・オースチンシュテフィ・グラフなどの人気選手がたくさん活躍していて、選手ブランドのテニスウェアも人気でした。

共学の大学のテニスサークルや同好会は女子大の子たちがたくさん入っていたので、結構な人数が集まっていたようです。  

 

どこの大学にも体育会系のサークルはたくさんありました。

野球から陸上、柔道、合気道、重量挙げなどなど。本当に熱心に練習していました。

野球でドラフトで指名される人や、スカウトされてプロになる人もいて、本気でやる人たちは体育会系、そこまででもない人たちは同好会という感じだったと思います。

同好会にもいろいろなスポーツがありました。

例えば「プロレス同好会」とか、まだ日本では珍しく聞いたことのないようなスポーツの同好会もありましたね。

 

学術系のサークルや研究会もたくさんありました。

こちらは、本当に真面目に勉強しようという学生が集まっていたようです。

偏差値の高い大学や学部ほど活発に活動していたように思います。  

 

また京都の大学には神社仏閣や史跡、観光スポットなどを巡るようなサークルも多かったようです。

こういったサークルは今も京都の大学には多いようです。  

 

大学公認の体育会系や学術系のサークル、同好会には、大学からの補助があったようですが、サークル活動には結構お金がかかりました。

非公認は言うまでもありませんが、サークルによってもいろいろだったと思います。

活動もそうですが、コンパや合宿の費用が結構かかりましたね。

必死でバイトしてた理由の一つですね!

 

私の入っていたテニス同好会

私は、テニスの同好会に入っていました。

女子大の子たちも入っていていつも賑やかでした。

学外のテニスコートを借りて練習をしていましたね。

派手なイメージを持たれがちでしたが、結構真面目に練習していました。

私は中学の時は軟式テニスをしていたので、大学で硬式を始めたばかりの頃はボールがすごくよく飛ぶのでびっくりしたのを覚えています。

女子大の子たちは、気配りができて世話好きで感心することが多かったですね。  

 

私の入っていた同好会では、コンパは新歓、前期打ち上げ、クリスマス、後期打ち上げ、追い出しなど、年に何回かありました。

パブやディスコ、当時流行ったカフェバーみたいなところを貸し切ってやってました。 一番驚いたのは、酔った時の女子大の子たちです。

とにかく男子に絡む、すり寄る、甘える、ベタベタする!

「そうか、このサークルに入ったホントの理由ってそういうことか!」と、変に納得したのを覚えています(笑)

大学に男子がいないとそうなるのかと思って見ていましたね。

反対に共学の大学では男子の数が圧倒的に多くて、私は息苦しくさえ感じていましたから…。  

 

夏合宿の思い出

夏合宿は、だいたい長野県あたりの高原で一週間くらいでした。

貸し切りバスで夜出発して早朝に着く感じです。

4人部屋で、毎晩遅くまで同じ部屋の子たちとワイワイしてました。

ほぼ恋バナです。

食堂に行くのもお風呂に行くのも4人一緒!

女子の付き合いは今も昔も、いろいろ大変なんです。  

それでも夏合宿は本当に楽しくて、今思うとまさに『青春』っていう感じですね(笑)

 

午前中に練習があって、基礎練習のほか女子ペアでラリーをしたり、男女混合のチームに分かれて試合をしたりしました。

洋楽や山下達郎なんかの音楽を流しながらする練習は、けっこうハードだったにもかかわらず楽しかったのであっという間に時間が過ぎました。

ただ高原とはいえ風は冷たいものの夏はやはり暑かったですね 

テニスコートまでの送迎はペンションのバスでしたが、みんなテンションが高くてバスの中は和気あいあいとしていましたね。  

京都の別の大学のテニスサークルと一緒になる日もありました。

コートのフェンスに大学やサークルの横断幕をつけて練習していたので、どこの大学のサークルかすぐにわかったのです。  

練習が終わると、ペンションに戻ってシャワーを浴び昼食をとりました。

 

午後からは自由時間で、散歩したりサイクリングに行ったり、それぞれのチームで買い物に行きウェアやバンダナをそろえたりしました。 

晩はバーベキューや花火、肝試しなど、毎日のようにイベントがありましたね。

 

練習は合宿中は毎日ありましたが、一日だけお休みがあってみんなで近くの池へ出かけました。

水泳をしたりボートに乗ったりして楽しく過ごしたのを覚えています。  

 

一週間は瞬く間に過ぎ、帰る前の晩に打ち上げがありました。

女子大の子たちの本領発揮の場です。

みんなものすごく頑張っていました(笑)  

そして次の日の朝、ペンションの前でみんなで写真を撮り京都へと帰ってきたのでした。

この時撮った写真が、コロナ自粛中の荷物整理で何十年ぶりかで出てきました。 

当時にタイムスリップしたようで、本当に懐かしい気持ちになりましたね。

 

それにしても、若かったとはいえすごい体力ですよね。

今だったらこんな日程、絶対に無理です(笑)

みんな元気にしているでしょうか。  

 

80年代のサークル活動は、人数が多いこともあってとにかく派手で活発でした。

 

 

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80年代 活気があった京都の大学の授業風景

80年代の大学キャンパスは、とにかくどこも学生数が多くて活気にあふれていました。

高校時代の友達の通っていた大学も、みんな同じような感じでしたね。

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大講義室

春4月、授業がスタートすると広い大講義室は学生でいっぱいでした。

最初、先生がマイクを使って話すのが驚きでしたね。

また、高校時代まで『プリント』と言っていたものが、いきなり『レジュメ』という言い方に代わったのも新鮮でした。

今では考えられないことですが教室の外に灰皿が置いてあり、ベンチに座って学生がプカプカ煙草をふかしていました。

1回生はほぼ20歳未満だよ(怒)

 

学生は、五月の連休明けくらいから少しづつ減り始めました。

大講義室は後ろの席から順に座っていくので、後ろはいっぱいで前のほう空いていました。多分そこはいつの時代も同じです。

出席を取る先生の時は最悪でした。

みんなサボる時は友達に頼むから、出席を取る意味なんてホントはなかったと思うんですが…(笑)

出席表に学籍番号と名前を書くだけならいいのですが、何人分も代返を頼まれて声優ばりに声を変えて返事している人もいましたね。

みんなが笑ってるのに先生が気づいてないのがまた可笑しくて、笑いをこらえるのに必死でした。

もしかしたら、先生は気づいていても気づいていないふりをしていたのかもしれませんね。

 

小講義室

小さい教室でする語学やゼミなどの授業は、そういう訳にもいかないのでみんな真剣だったようです。

小テストがあったり、あてられたりするので大変でした。

何回まで休めるとか数えていましたね。

1/3までは休めたと思います。けっこう緩いですよね(笑)

それでも、出席が足りなくて留年するクラスメートも、必ず何人かはいました。

 

そういえば語学の教科書の訳本が学外のお店で売られていました。

雑で汚い手書きのコピー本でしたが、結構役に立ってくれてありがたかったです。

ルール違反なんですが、私のまわりではみんな持ってましたね…(笑)

もちろん私も!

 

80年代の授業風景

もちろん大講義室の授業に限ってですが、退屈な授業の時は友達と話したりする声があちこちでしていました。

ただし面白い授業は静かでしたね。

当時の学生はバイトしてたり遊んでいたりして、大学に来ない人も結構多かったように思います。

だから基本的に、授業に出ているのは、真面目に勉強しようという学生でした。

ザワザワしている授業とシーンとしている授業ははっきり分かれていましたが、不真面目な学生はそもそも大学には来ていなかったのです。

 

それから先生によっては、授業の終わりに感想やまとめを書かせていました。

こちらの方が、いい加減な(笑)出席表よりよっぽど効果的だったのではないかと思います。

 

授業態度の変化

京都の大学に勤めている友人に聞いた話ですが、今の学生は「とにかく出席」だそうです。

前期とか後期の半期で2単位を取れる「セメスタ」がほとんどで、出席数が成績に含まれるからということのようです。

でもその結果、大学に通ってくる学生は多くても、「私語が多くザワザワしていてやりにくい」と感じている先生も多いとか…。

また、寝ていたりスマホをさわっている学生も多いそうです。

 

私たちが学生だった頃も、ルーズリーフの切れ端にメモとか書いて回したりしていましたよね。

授業を抜けて遊びに行ったことも何度もありました。

良くないことなのに、なぜかそういうことほど懐かしく覚えているから不思議です。

 

大学時代はいろいろなものに興味を持つ年齢。

特にバブル時代の大学生は、見るもの聞くもの全てを吸収しようとするエネルギーがすごく大きかったように思います。

親や大学側も“遊びやバイトも勉強のうち”くらいのおおらかさがあり、細かいことをゴチャゴチャ言いませんでした。

 

政治的なことや社会を変えようみたいなこともほとんどなく、学生の売り手市場で就職の心配もあまりしなくていい、平和で穏やかでそして面白い時代だったと思います。

 

 

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80年代の京都の大学キャンパスは大混雑!特に学食(笑)

80年代の大学はとにかく学生の数が多くて、特に四月のキャンパスは学生でごった返していました。特に学食!

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メニューの多さにビックリ!

大学の学食には「~定食」「~丼」「麺類」「一品物」「汁物」などがあり、季節によってメニューはいろいろ代わりました。

大学に入ったばかりの頃、うどんやそばのおつゆがすごい薄味で本当に驚きましたね。

京都は薄味と聞いていましたが薄味というより味がなかった!

また生野菜にかけるドレッシングが何種類も置いてあって、自分で好きなように選べるところが新鮮でしたね。

最初こそ戸惑いましたが、慣れるといろいろ試してみたりしてました。

 

個人的におもしろかったのは、やっぱり丼物でしょうか。

マーボー丼や鶏カツどん、中華丼は、それまであまり食べたことがなかったので新鮮でした。

夏の冷麺も種類が多くてうれしかったです。  

 

大混雑だった学食 

学食はキャンパス内にいくつもありましたが、どこもいっぱい!

トレイを持ったまま、食べ終わるのを通路で待っているような状態でした。

そのうち、荷物を置いて席取りをしてから、食券を買いに行くという技(?)を覚えました。

ただあまりの混雑で、3講目の授業に遅れてしまうこともしばしばでした。

大学に来る学生の数はゴールデンウイークのあと位から減り始めましたが、学食はいつも混んでいたように思います。  

清算の仕方はそれぞれの学食で違っていて、先に食券を買う学食もあればトレイに料理の器をのせてレジで支払う学食もありました。

レジもやっぱり順番待ちで長蛇の列でしたね(笑)

大学に慣れてくると学外の喫茶店や食堂にも目が向きはじめ、一通り入ってみるようになりました。

学食より空いてて楽だったけど、みんなあまりお金がなかったしやっぱり基本は学食という人が多かったですね。  

 

座席の確保が最優先

今と違い席を確保するのが大変だった時代。

一人で食べるのをためらっている学生は少なかったように思います。

もちろん女子は今と変わらず群れるのが基本でしたね。

友達同士で座ろうとすると、もう必死(笑)

“食べ終わりそうな人を探し出してその横で待つ!”基本中の基本でした。

 

キャンパス内の男女の比率は圧倒的に男子が多く、学部によってはクラスに女子が一人とか二人ということもあったようです。

理系とか法学系は本当に少なかったですね。

“ぼっち”をこわがっていたら、大学生活が成り立たない!

そんな時代でした。

 

今の学生は極端に“ぼっち”を嫌うようで、テレビで「学食の座席の改革」的な番組を見たことがあります。

「一人ぼっち=友達がいない」みたいに思われるのが嫌で、食事を抜いたりトイレの個室で食べる学生がいるとのこと。

そこで“ぼっち席”なるものを作ったとかいう話でした。

“ぼっち席”とは、壁際や窓際の席に仕切りを設けて、相席したり誰かと向かい合ったりしなくていい席のことだそうです。

よくカフェにありますよね。

「何とデリケートな!」と思う反面、そういえば自分だって一人で食べるの苦手だったな…。

 

少し前から、少子化で学生を確保することが課題になっている大学が多いと聞きます。

様々な工夫や気遣いをしてもらえる今の学生が羨ましい気がしますね。

 

 

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80年代の京都の大学生のファッションってやっぱり“地味”だった?

80年代に流行ったファッションといえば何を思い出すでしょうか?

一般的にはDCブランドプレッピーニュートラハマトラなど華やかでしたね。

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ファッションに関心が集まった80年代

80年代のファッションで絶対に外せないのがDCブランド。

国内のデザイナーやアパレルによるブランドです。

代表的なものにピンクハウスコム・デ・ギャルソンヨウジ・ヤマモトKENZOなどがありました。

ファッションビルがあちこちにできて、デパートもこれらのブランドショップが主流でしたよね。

DCブランドのショップの販売員さんは“ハウスマヌカン”っていう名前で呼ばれていました。

一体どこの言葉?って感じですが当時は流行の最先端だったのです。

今ではすっかり“死語”ですね(笑)

 

80年代は経済的に成熟していた時代

私が大学生だった80年代の後半期はバブルへと向かう時期で、ファッションにお金をかける人が多くいた時代だと思います。

またCanCanJJといったファッション誌がそのお手本になっていました。

『オシャレな大学生特集』のような企画も多く、京都の大学ではノートルダム女子大同志社女子大が、よく取りあげられていました。

特にノートルダム女子大のある北山通りは、オシャレなカフェやブランドショップが多くてとても華やかでした。

京都で一番オシャレなスポットとして認知されていましたね。

観光客もすごく多くて、いつも賑わっていたのを覚えています。

河原町通(御池通から四条通)や四条通(烏丸通から東大路通)辺りも賑やかでした。

土日になると、今とは比べられないくらい人がいっぱいで歩けないほどでしたね。

ファッションに気を使っているオシャレ人がたくさんいました。

 

大学生のファッション

その時代の大学生のファッションがどうだったかといえば、ファッションに関心の集まる世の中のブームとは別の世界という感じでしたね(笑)

高校時代の友達が京大、同志社、立命、龍谷、京女など京都の他の大学に来ていたので時々遊びに行きましたが、どこも似たような感じでした。

もちろんファッション誌にとりあげられる一部の女子大や、一部のオシャレな人たちを除いてですが…。

 

私の大学では、入学式こそみんなスーツできちんとしていましたが、次の日からはほとんどの学生が“フツーの普段着”でした。

どちらかといえばオシャレとは真逆で、家にいる時のまんまみたいな…。

上の学年の先輩たちもほとんど同じような感じでしたね。

特に男子は、春はトレーナー(今でいうスウェット)とジーンズ、夏はTシャツかポロシャツとジーンズ、秋はチェックや無地のシャツの上にカーディガンかトレーナー(プロデューサー巻きあり)とジーンズ、冬はセーターか秋の格好の上にスタジャンか短めのコートをはおってくるというのが定番だったように思います。

女子はそこそこ気を使ってはいたようです。

でも大学に女子が少ないということもあり、全体的にみて地味でした。

すっぴんの人も少なからずいたように思います。

 

もちろんオシャレな人もいるにはいました。

でもそういう学生は普段はバイトやしたいことをしていて、大学にはあまり来ていなかったのです。

テスト期間になると見かける率が上がりましたね(笑)

 

音楽やマスコミの影響

地味でオシャレとはあまり関係のない大学生も、次第に経済の波に飲み込まれていきました。

80年代アイドルのぶりっ子ファッション、YMOのテクノファッション、安全地帯などバンドのモノトーン系や大きめの肩パッドのジャケットなど、流行を取り入れる学生はだんだん増えていったようです。

本物のブランドの服は買えないまでもそれを模倣したものを買う人がほとんどだったと思いますが、本物を手に入れるために必死でバイトしている人もいましたね。

 

また、服はオシャレとは無縁でも、髪型だけは流行のスタイルっぽいという学生が案外多かったように思います。

その頃には松田聖子さんはもうショートヘアでしたが、その時代のアイドルは聖子ちゃんカットと似たような髪型をしていました。

そのせいかレイヤーを入れて、フワフワに後ろに流すような髪型の女子が多かったようです。

男子の間ではテクノカットといわれる、もみあげを短くまっすぐに切りそろえてバックを刈り上げるような髪型が流行っていました。

でも大学に限らず、流行っているというだけで全然似合っていない服装や髪型の人がけっこういましたよね。

「そんなに頑張らなくても」っていうような、ちょっと笑っちゃうような…。

そんな感じでしょうか!

街に出るとDCブランドの影響からか、奇抜なファッションの人やモード系の服装やメイクの人を見かけることもありました。

平野ノラみたいな感じの人もいましたね(笑)

今ではテレビかハロウィンくらいでしか目にしなくなりましたよね?

 

私の大学時代のファッション!

私も大学時代は、毎日何を着ていったらいいのか悩んでばかりでした。

CanCanやJJには真似してみたいと思う服装がたくさん載っていましたが、どれも高くて買い揃えるのは難しかったですね。

周りもみんなそんな感じでした。  

BIGIやメルローズに憧れてショップを覗いてみるものの、試着するのもためらってしまう…買えないのがわかっているから。

それとショップのお姉さん、そう“ハウスマヌカン”が苦手でした!

でもあちこちのお店を見て回るだけでも十分楽しかったですね。

結局、どうしても欲しかったBIGIのジャケットやワンピースは、親にねだって買ってもらいました(笑)

もちろんアルバイトもしていたので、そこそこ自分なりのオシャレを楽しんではいました。

あくまで自分なりのです(笑)

 

京都の繁華街の変化自分なり

今も京都に住んでいますが、河原町に行くことは少なくなりました。

京都に来たばかりの頃、初めて四条河原町の阪急百貨店を見た時はあまりの綺麗さに驚き、また本当にうれしかったことが思い出されます。

今は別のお店になっていますが、私が大学生の頃はよく待ち合わせ場所に使われていていつも人でいっぱいでした。

外から店内のシャンデリアがガラス越しに見えて、すごくキラキラしていてオシャレでステキでしたね。  

バブルの頃にはデパートもファッションビルも、特にバーゲンの時など開店待ちの人で溢れかえっていたものです。

河原町通もチェーン店が増え、当時とは様変わりしました。

BALもリニューアルしましたが、あの頃のような賑わいがまた戻ってくるといいですね。

もちろんバブルは困りますが…(笑)

 

 

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80年代の大学入学式と初めての独り暮らし

80年代の受験の大変さについては、前回書いた通りです。

今回は晴れて京都の大学に合格してから入学式を迎えるまでを書きます。

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大学が決まるまで

80年代は受験生の数が多いだけでなく地方入試もまだそんなに多くなくて、地方の高校生にとっては大変でした。

関西で人気があった関関同立(関西・関西学院・同志社・立命)は、偏差値が60以上あり競争率も非常に高かったですね。

私は滑り止めをいれて4回ほど受験しました。

待ちに待った合格通知が届いた時は本当にうれしかったですね。

合格した中で第一志望だった京都の大学に入学手続きをしました。

 

三月には卒業の余韻もそこそこに国公立の二次試験がありましたが、こちらの方はちょっと残念な結果でした(涙)

ただ私は京都で暮らせることへの期待の方が大きくて、何だかワクワクするような感じでしたね(笑)

 

京都で下宿探し

そういう事情で大急ぎで住むところを探すことに!

3月の何日かは忘れてしまいましたがとても天気のいい日でした。

両親とともに住むところを探しに京都に来たんですよね。

京都にはなじみがなかったのでとりあえず大学の下宿案内の窓口に行きました。 

ところが「紹介できるところはもうあまりないんです。」と言われ、いきなり焦ってしまったのです。

窓口の方の話によると「私大志望の学生から順に決まってしまうのでこの時期になると少なくなる」とのことでした。

残っているところで3~4件くらい紹介してもらい地図を片手におしゃべりしながらブラブラ見に行くことに。

今となってはとても懐かしい思い出です。

結局3番目に見に行った、女子学生用のアパートに決めました。

玄関を入ると、台所と洗面所、トイレ、ランドリーが共用で一階にあり、各個室は1階と2階に12室ありました。

そこのアパートが運よく一室だけ空いていたのです。

当時は、そういうタイプの下宿やアパートが、まだマンションよりちょっとだけ多かったように思います。

ということで、大家さんにも挨拶を済ませ、その日は自宅に帰りました。

 

そしていよいよ引っ越しの準備です。

家具や電気製品などひと通りのものは大学生協に申し込むことができたので、本当に便利でした。

コロナ自粛中に片づけていた段ボール箱の中に、その時の大学生協のパンフレットを見つけました!なんでとっておいたのか不思議ですよね(笑)

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それでも手持ちの衣類やら何やら、結構な荷物になりましたね(笑)

 

3月の終わり頃、ついに京都に出発しました。

 

独り暮らしの始まり

京都駅はめちゃくちゃ混んでいて目が回りそうでした。

今の京都駅舎ができる前のことですが、その当時から春の京都駅の混雑は相当なものでしたね。

下宿に着くと大家さんに挨拶をしに行きました。

一回生は私を入れて4人。あとは同じ大学の先輩たちだったので少し気が楽でしたね。

ガスコンロや洗濯機、乾燥機などの使い方や、共有のルールを教えてもらいました。

大変だったのは、私より先に着いていた沢山の荷物の梱包を解かなければならなかったことです。

足りないものは近所の商店街で買い揃えました。

その晩は初めての独りご飯

京都駅で買ってきたお弁当でしたが、寂しくて味気なくて……。

家族の暖かさが恋しくて、泣きそうな気分でしたね(笑)

 

でも大変だったのは、それからです。

知らない所で知らない人たちと一緒に生活して、しかも自炊しながら大学に通うわけですから。

「ろくにお料理もできない自分が本当にやっていけるのかなあ」っていう不安でいっぱいでした。

でもやってみればなんとかなるもんなんですよ!

キッパリッ!!

 

入学式は学生で大混雑

そしてついに入学式の日がやってきました。

今思えばこの日から新しい人生が始まったんですね。

入学式は、とにかく学生の数が多くてびっくりしました。

スーツ姿の新入生、家族、上級生などでごった返していて、前に進むのがやっとという状態!

会場の中でもあまりの人の多さに気おされてしまいました。

式のことはあまり覚えていません(笑)

吹奏楽部の演奏が記憶にちょっと残っているくらいかな♬

 

式が終わって外に出てきたら、サークルの先輩たちの勧誘がすごくてまたビックリ(笑)

右からもビラ。左からもビラ。「旗か?」と思う位はためいていましたね。

無理やり押し付けられたビラを仕方なくもらって帰ったのを覚えています。

結構な枚数でしたが、どのサークルに入るかなんてまだ何も考えていませんでした。

 

次の年にはビラを配って(押しつけて)勧誘する側になることなどまだ知らなかった私です。

 

 

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コロナ自粛中に80年代にタイムスリップ

クローゼットの整理をしていたら懐かしいものがたくさん出てきました。

今まであまり振り返ってこなかった80年代について書いてみようと思います。

忘れてしまう前に…。

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コロナ自粛中の発見

きっかけはコロナの流行で時間に余裕ができたこと。

今まで見て見ぬふりをしてきたクローゼット奥の段ボール箱たちの整理を開始!

始めてみれば「よくぞこんなものを」と思うような懐かしいものからくだらないものまでどんどん出てくる出て来る(笑)

特に大学時代のものが多かったですね。 

80年年代の後半、私は京都の大学の女子大生でした。

しまってあった色々なものを見ていると、様々なことが思い出されてきました。

あの時代の大学は思い返してみるとホントに面白いです。

授業もバイトもコンパも遊びも。

当時の写真を見ると、そこに写っている彼ら彼女らが今どうなっているか知っているだけに笑えてきます。

まるでタイムカプセル!

本当に懐かしかったので思い出せる限り書いてみたいと思います。

  

大学受験で地方から京都へ

私は海辺の地方都市で幼少期を過ごしました。

高度成長時代で子供でもだんだん豊かになっていくのがが実感できた時代です。

青春時代はほぼバブルとその前後。落差は激しかったけど(笑)

 

なので京都に住むようになったのは、大学時代からです。

本当は東京の大学に行きたかったのですが、「京都は学生の街だから安心!」とすすめられ受験しました。

受験のため初めて京都に一人で泊まることになり、両親がすごく心配したのを覚えています。

田舎の女子高生には、京都は十分都会でしたね(笑)

確か大学生協の「受験生の宿」に申し込みました。

一人部屋は心配だからと4人の相部屋!

同じ大学の受験生ということもあって同じ部屋の3人とすぐに打ち解け、喫茶店に行ったり、受験の時のお昼ご飯用のパンを買いに行ったりしました。

そのパン屋さんは、「志津屋」です。京都では誰でも知っている美味しいパン屋さん。

その時はたまたま近かっただけで偶然です(笑)

 

晩御飯は「鶏の水炊き鍋」でした。

仲居さんが目の前で作ってくれたので驚きました。

とてもおいしくて4人でいろいろな話をしながら食べました。懐かしいです。

そんな感じで受験前夜は仲良く枕を並べて眠りました。

4人部屋のおかげで緊張感ゼロ(笑)

リラックスできてよかったのかも。

翌朝、朝食をとったあと同部屋の人たちと再会を誓って別れました。

さすがに連絡先を交換する勇気はなかったようです。

 

80年代の受験風景

御池通りに何台も貸し切りバスが停まっていて、近くの旅館やホテルに宿泊した学生が受験会場の大学まで一緒に行きました。

80年代は子供の数が多かったので大学受験はものすごい倍率でした。

また今ほど地方入試をあちこちでしていなかったので、会場の大学は受験生で溢れかえっていました。男子の方が圧倒的に多かったですね。

大学は「○○館」とか「○号館」といった聞きなれない建物ばかりで、最初に受験した

ときは本当にあせりました。

どの建物も同じようで迷いそうでしたね(笑)

でも何回も受験するうちにだんだん慣れていきました。

みんな同じよういくつも受験していましたね。

地方から京都に受験に来た人は、二月は連泊してたようです。

親の負担も大変なものだったと思います。

経済的にもそうですが、ずいぶん心配だったことでしょう。

地方から大学に入るためには、まず受験そのものが一大イベントだったのです。

それを乗り越えたら(合格したら)晴れて大学生です!

 

 

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「京都人」という言葉には二つの意味があるって知っていますか?

テレビやネットで「京都人」という言葉をよく見聞きします。

ほとんどが悪いイメージで使われていて面白いです。

でも京都では、この「京都人」という言葉には二通りの意味があるんですよ。

知らずに使っていると痛い目に合うかも?です(笑)

 

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テレビなどで使われている「京都人」のイメージ

最近、「京都」VS「大阪」とか「京都」VS「滋賀」みたいな番組が多いですよね?

そういう番組のほとんどは「京都人」がらみです。

結局、「京都人」のプライドの高さや、思っていることを口にしないところ、他府県を見下しているところ、いけずなところなどをあげつらって落とすみたいな感じでしょうか?

今までみんなが思ってきたことだったり、一度ならずも嫌な思いをしたことがあることだったりするのかな?

「笑い飛ばしてスッキリする」みたいな感じかも知れないですね。

 

私が好きな「秘密のケンミンSHOW」という番組では、MCの久本さんが「京都人イジリ」をするのが面白くていつも笑って見ています。

彼女は大阪人ですからね。

当然ながら京都人受けはよくありません(笑)

「偏りすぎ!」とか言って怒っている人が私の周りにもたくさんいます。

 

でも以前NHKで放送していた「京都人の密かな楽しみ」という番組では、「京都人」=「京女」として描かれていました。

こちらは上品でおしとやかでちょといけずな京女を常盤貴子さんが演じていて、すごく人気があったようです。

この番組はバラエティーと正反対で、ちょっといいイメージでした(笑) 

 

 

  

 

「京都人」の意味とは?

「京都人」とは京都で生まれ育った人のことを指します。

コミュニティーが狭くてつながりが深く付き合いが長いので、お互いの仲間意識や連帯感が強いという特徴があります。

"京都生まれ京都育ち"ということに異常なまでのプライドを持っていて、他府県を見下したり「京都人」以外を寄せつけなかったりします。

 

またうわべと本音は違うと思った方がいいですね。

その場の空気を読んで周りに合わせるのが上手です。

表立って本音は言わないけれど内緒話は大好きで、人の悪口と噂話が大好物(笑)

 

ではどうして「京都人」という言葉がこんなに正反対のイメージで使われているのでしょうか?

それは「京都人」という言葉には二通りの使い方があるからです。

 

京都人が使う「京都人」

京都人は自分たちのことを「特別な存在」だと思っています。

もちろん勝手な選民意識なんですが、「千年もの昔から都だった京都に生まれ育ったもの」としてのプライドは相当なものです。

「日本で京都は一番、だから自分たちも一番!」と本気でそう思っていたりします。

京都人が自分たちのことを「京都人」と言う時は、そんな風な意味です。

 

「うちら京都人やからそんなことわからへんわ」

「だって京都人やもん」

そんな会話を何度聞いたでしょうか。

もちろん京都人以外に対してです。

要するに、京都人同士の仲間意識で自分たちに対して「京都人」を使います。

京都人以外と差別化をして、「京都人の方が上」という意味を込めているのです。

 

また女性は「京都人=京女」と自負していますが、上記の「京都人の密かな楽しみ」の常盤貴子さん的イメージでしょうか(笑)

 

京都人以外が使う「京都人」

それに対して京都人以外が使う「京都人」とは、テレビなどのマスコミやネットで日々使われているどちらかといえばよくない意味ですよね?

プライドが高くて腹黒、いけず、嫌味…。

 

そのため京都人は、京都人以外から「京都人」と言われるのをとても嫌がります。

 

ただ京都の女性はやっぱり人気があるようです。

男性を立てる、つくす、我慢強い、控えめ、上品、優しい…。

そういうイメージが根強くあるんですね。

おそらくこれらは男性の理想や願望なんでしょう(笑)

 

とにかく「京都人」と付き合うなら、二通りの意味を理解しておくことです。

「京都人」の前で「京都人」というワードを使うのはNGですよ! 

 

 

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京都 天龍寺で真夏の庭と精進料理を楽しむ!

8月もあと少しになりましたね。

今年の京都はここ数年の中でもトップクラスの暑さでした。

先日はまだまだ暑い嵐山の天龍寺で、真夏の庭園と精進料理を楽しみました。

 

真夏の天龍寺へ

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嵐山にある天龍寺は臨済宗天龍寺派大本山で、1339年に吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏によって創建されました。

開山(初代住職)は夢窓疎石です。

度重なる大火のため、現在ほとんどが明治以降に再建されたものだそうです。 

1994年に世界文化遺産に登録されました。 

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嵐山を借景にした夢窓疎石作の庭園(曹源池)は回遊式の庭園で、当時の面影を残していると言われています。

 

真夏に訪れたのは初めて。

とにかく蒸し暑い!

でも庭園は、緑と白のコントラストが美しくて涼しげです。

写真を見ても全然暑そうじゃないですね(笑)

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訪れたのは午後でしたが、めずらしく空いていました。

でも今夏は地震や豪雨、台風の影響もあり、観光客が少し少なめだったそうです。

天龍寺は家から近いので友人や知人をよく案内しますが、こんなに空いていたのは初めてかも?

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曹源池はさすがの美しさです。

いつ来ても感動しますが、特に夏は緑色が深い! 

そのため池の水の色はとても深い緑色です。

暑さを差し引けば、色彩が濃い庭園も素敵ですね。

 

精進料理の篩月(しげつ)へ

天龍寺直営の精進料理店「篩月」を訪れました。

実はこちらが先!

しかもメイン(笑)

天龍寺の敷地内にあります。

広~い大広間で頂きました。

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湯葉は特に美味です!

お出汁が効いていました。

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トウモロコシのご飯も美味しかったです。

私は野菜の好き嫌いが多いので、今まで精進料理は敬遠しがちでしたが大丈夫でしたよ。

ゆっくり味わって頂きました。

 

詳しくはこちらをご覧ください↓↓↓

天龍寺直営 精進料理店「篩月(しげつ)」:世界遺産|京都 嵯峨嵐山 臨済宗大本山 天龍寺 公式ホームページ

  

 

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両大戦間のアメリカで暮らした祖父母のアルバムを見て思ったこと

第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の比較的穏やかな時代、私の祖父母はサンフランシスコで暮らしていました。 

その頃のサンフランシスコは、日本とは比べものにならないくらい近代的で豊かだったようです。

久しぶりに祖父母のアルバムを開いてみたら、いろいろな想いが溢れて胸がいっぱいになりました。 

 

アメリカへの留学

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祖父は高校を卒業すると十代でアメリカに留学し、そのままサンフランシスコの貿易会社に就職しました。

アメリカに行ってから10年後、結婚のため一度日本に戻り妻である私の祖母を連れて再びアメリカへ。

そんな時代に、まだ十代の長男を異国に行かせる決断をした両親(私の曽祖父母)には驚きと同時に尊敬の気持ちでいっぱいになります。

新しい世界を見たい、最先端の国で学びたい、そこでどこまでやれるか自分を試してみたい。

若かりし頃の祖父の夢を思うと、胸が熱くなります。 

 

二人だけの結婚生活

当時のサンフランシスコはいろいろな国からの移民が多かったそうですが、祖父の会社や住んでいたアパートには日本人は誰もいなかったそうです。

本当に二人だけの結婚生活で、そのために余計に絆が深まったとか。

とにかく今風に言えば"ラブラブ"といったところでしょうか(笑)

生涯、羨ましいほど本当に仲のいい夫婦だったそうです。

 

祖父のサポートがあったとはいえ、祖母にとっては言葉もあまり通じない国で出産や育児をするのは さぞかし大変だったことでしょう。

その当時の日本人に共通する部分だと思いますが、どんな事にも我慢して本当によく頑張ったと思いますね。

いろいろな意味で頭が下がります。

おかげで子供にも恵まれ幸せな結婚生活を送っていたようです。

 

残念ながら私の母はアメリカ生まれではありません。

帰国してから、しかも祖母が40歳を過ぎてからの子供です。

そのため私は祖母のことは少し覚えていますが、祖父のことは全く知りません。

 

豊かで文化的だった当時のアメリカ社会 

祖母や母の兄弟から聞いたところによると、当時のサンフランシスコは日本とは比べ物にならないくらい豊かな国だったようです。

まず"会社が日曜日は休みで土曜日もお昼まででだった"ということに驚きました。

アパートから会社までは車で通勤していたようで、クラシックな車の前で撮った祖父のスーツ姿の写真が残っていました。

 

子供たちは会社から帰ってくる祖父の車の音がすると、大急ぎでスリッパを並べて玄関で待っていたとか。

時々お土産を買ってきてくれたそうで、中でも三色のアイスクリームが大好きだったと叔母が話してくれました。

バニラとストロベリー、チョコレートのアイス!

とても美味しそうです(笑)

 

日曜日には教会のミサに出かけ、公園でくつろぎ、時々野球の試合を見に行く。

祖母はチャイナタウンで食事をするのが楽しみだったそうです。

思わず「いつの時代の話?」と聞きたくなるくらい、今の時代の休日と変わらないことに驚きます。

 

私がもっと驚いたのは、当時の食品店。

なんと、今と同じようにカゴに買いたいものを入れてレジで精算するスタイルだったそうです。

祖母の話では欲しいものが何でも好きなだけ買えたそうですから、すでに普通に豊かな社会だったということでしょうか?

楽しそうな生活は、祖父母のアルバムを見れば伝わってきます。

 

そして、写真に映った当時のサンフランシスコの街の様子にも驚きました。

きれいに整備された道路、街灯、カフェやレストラン、近代的なビル…。

その建物の中には今も現役で残っているものがたくさんあるそうです。

今のサンフランシスコの写真と比べてみたら、確かに見つけることができました。 

 

戦争を越えて

戦争が始まった時、祖父は「(日本は)絶対に勝てるわけがない」と言っていたそうです。

実際に自分の目で見て、アメリカという国の大きさを知っていたからでしょう。

そのままアメリカにとどまっていたら収容所生活を強いられたわけですから、帰ってきて正解だったのかも知れません…。

 

帰国してからの祖父母一家の生活は、それまでとは一変しました。

特に子供たちは文化の違いで苦労したそうです。

畳の生活や衣服、食べ物など何もかもが変わってしまって辛かったと叔母に聞きました。

特に戦争中は、いろいろと大変だったそうです。 

 

でも新しい家族も増えました。私の母もその一人です(笑)

祖父母は相変わらず仲が良く、ユーモアに溢れた楽しい家族だったそうです。

「夫婦がお互いを思いやり尊重し合える対等な関係であることの大切さ」を、私は祖父母から学びました。

 

ただ、もし戦争がなかったら、そのままアメリカで暮らしていたはず。

私の人生も、もしかしたら全く違うものになっていたかもしれませんね。

いつの日か祖父母の暮らしたサンフランシスコへ行ってみたいと強く思います。 

 

 

 

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